いろいろわかる… 西田あい ロングインタビュー! 最新シングル『幸せ日記』は、初めて自身で作詞も手掛けた作品。J-POP のようなサウンドの新しいタイプの歌謡曲。いつもニコニコ、まさに天真爛漫という言葉が似合う明るいキャラクターの西田あい…、その裏に、これまで隠されていた苦悩とは…?

インタビューの最後に、読者プレゼントあり!

Nishida Ai

西田 あい

10th Single「 幸せ日記 」


★ 恩師の平尾昌晃が命名した人気急上昇中の歌謡曲歌手!
★ 2010年、平尾昌晃プロデュースでデビューして10年!
★ 3年前からは、YouTuber としても活動して大人気!


★ 最新曲『幸せ日記』は、言葉が耳に残るポップス調の歌謡曲!
★ 初めて自身で作詞も手掛けた、J-POP 風、今の時代の新しい歌謡曲!
★ ギター1本だけで歌った「弾き語りバージョン」も収録!


★ カップリングの『Home』も、楽曲制作に最初から関わった楽曲!



西田あい「幸せ日記」MUSIC VIDEO

西田あい『幸せ日記』歌詞を見る!


西田あい「Home」MUSIC VIDEO

西田あい『Home』歌詞を見る!



タイアップ 情報

西田あい「幸せ日記」
フジテレビ 「なりゆき街道旅」エンディングテーマ曲(4〜5月)
毎週 日曜 12時~14時 放送

番組サイト



ネットサイン会

リミスタ【4/20】西田あい『幸せ日記』発売記念インターネットサイン会
開催日時: 2021年 4月20日(火)19:00 スタート
販売期間: 2021年 4月12日(月)~ 2021年4月20日(火)番組放送途中 まで
配信  : 西田あい Official YouTube Channel

詳細・参加購入はコチラ! リミスタ



リリース 情報

西田あい 「幸せ日記」
CD シングル / Digital
2021年3月3日発売(2月10日 デジタル先行配信)
CRCN-8390
¥1,500(税込)
日本クラウン

<収録曲>
1 幸せ日記 (作詞:SoulJa、西田あい 作曲:SoulJa 編曲:YANAGIMAN)
  ※ フジテレビ『なりゆき街道旅』エンディングテーマ曲(4〜5月)
2 Home   (作詞:SoulJa 作曲:SoulJa 編曲:YANAGIMAN)
3 幸せ日記 (弾き語り ver.)
4 幸せ日記 (Instrumental)
5 Home (Instrumental)

各配信サイト


西田あい 日本クラウン

西田あい オフィシャルサイト


西田あい YouTube チャンネル
ニシアイ チャンネル


西田あい 歌詞一覧

MUSIC GUIDE「注目歌手カタログ」西田あい



観覧/配信 コンサート情報

「応援ソングだよ!全員集合!」(会場観覧 / ネット配信)

開催日時 : 2021年 5月 2日(日) 14:00 開場 / 15:00 開演
       (リハーサル風景&楽屋裏大公開 ネット配信 12:00〜13:30)
開催会場 : 北とぴあ さくらホール(東京都北区王子 1-11−1)
配信   : PIA LIVE STREAM
チケット : 会場観覧  ¥8,500円(税込)全席指定
       ネット配信 リハーサル風景&楽屋裏大公開 ¥2,000円(税込)12:00〜13:30
       ネット配信 本番生配信 ¥3,500円(税込)
配信期間 : 2021年 5月 9日(日)23:59 まで アーカイブ配信
発売期間 : 2021年 5月 9日(日)20:00 まで 配信チケット購入が可能
主催   : 株式会社 エフ.エー.ブイ
後援   : 第一興商

<出演>
純烈、中澤卓也、パク・ジュニョン、西田あい、松原健之、辰巳ゆうと、岩佐美咲、はやぶさ

チケット購入 チケットぴあ



ラジオ レギュラー番組

ラジオ レギュラー番組 「 i からはじまるストーリー 」
bayfm 毎週 月曜 あさ 4:00 〜 4:49

※ radiko(ラジコ)プレミアムなら、聴取エリア外でも、日本全国、どこでもインターネットで聴けます(聴取エリア外は、要プレミアム会員登録)。

レギュラー番組「 i からはじまるストーリー」bayfm

bayfm ラジコ(radiko)で聴く
ラジコ エリアフリー(プレミアム会員)




西田あい ロング・インタビュー


 顔の骨格や表情と声との間には、密接な関係がある。怖いカオをして優しい声は出せないし、ニコニコしながら怒ってもコワイ声にはならない。

 西田あいの歌声は、とにかく響きが明るい。太陽のように、いつもニコニコ、まさに天真爛漫という言葉が似合う、その性格やキャラクターが歌声にもよく現れている。歌声の響きが明るいから、その魅力的な歌声とともに、メロディに乗った言葉が耳に残る。ステージでも、あんなにいつも楽しそうに歌っている歌手は珍しい。
 西田あいという芸名を付けた、恩師でもある作曲家の平尾昌晃が、「何時間聴いてても疲れない」と言ったように、歌声に余計なチカラが入っていないから、その心地よい響きで、メロディや歌詞そのものの良さも伝わってくる。

 何より、パキッとしているのに、やわらかさのある素直な歌声、明るい響きで言葉がクリアに聴こえる歌声が魅力で、言葉を語るように丁寧に歌っている印象がある。

 もともと、地元の鹿児島で「モーニング娘。」を聴いて踊っていた少女が、ニュージーランドでの高校時代に、成り行きから宇多田ヒカルや中島美嘉の曲を歌ったことで、歌手を目指すようになる。

 布施明、小柳ルミ子、五木ひろしらをスターに育てた作曲家の平尾昌晃に見出され、それまで知らなかった歌謡曲の魅力に気付き、2010年、21歳の時に、平尾昌晃プロデュースのシングル『ゆれて遠花火』でデビュー。切ないサビのメロディが耳に残るマイナー調の平尾昌晃らしい歌謡曲。いい歌だ。

 2nd シングル『ときめきカフェテラス』は、オールディーズ風の歌謡曲、そして、3rd シングルは、布施明の『恋』をカバー。2014年からは『徳光和夫の名曲にっぽん』、2016年からは『歌え!昭和のベストテン』と、音楽番組のアシスタントを担当したこともあり、明るいキャラクターに鹿児島なまり、さりげない、いちいちキュートな仕草に中高年の男性ファンも急増。『月見草』『雨おんな』『涙割り』とリリースごとにジワジワと人気に。

 2016年にリリースされたフォーク調のシングル『最後の頁』ではファン層を広げ、続く、8枚目のシングルは、竹内まりや『September』、杏里『悲しみがとまらない』、松原みき『真夜中のドア』、中森明菜『北ウィング』、杉山清貴&オメガトライブの代表曲の多くを作曲した作曲家・林哲司による名バラード『愛が足りなくて』。

 昨年、2020年には、林哲司プロデュースで 10周年記念曲『My Story』をリリース。メジャー調でアップテンポのシティポップ風のこの曲は、オリコン週間 演歌・歌謡シングルランキングでは 1位を獲得するヒットとなった。

 今作、通算10枚目となるシングル『幸せ日記』は、作曲を、2007年ころから J-POP の世界で大ヒット曲を連発した SoulJa(ソルジャ)が担当。そして、同じ事務所でデビュー同期に当たる「純烈」のリーダー・酒井一圭のすすめで、初めて自身で作詞も手掛けた作品だ(SoulJa との共作)。

 そのサウンドは、まるで J-POP のようにも聴こえるが、サビのメロディと言葉が、一度聴けば覚えてしまうくらい耳に残るし、聴いていて単純に心地よい。最近の J-POP の中に少なくない、覚えられないような楽曲とは違い、歌詞とメロディがしっかりしていて、ポップに作られている。

 カップリングの『Home』も、『幸せ日記』同様、歌詞のテーマを含め、西田あい自身が楽曲制作にも関わり、さらに、『幸せ日記』を、歌とギターだけで収録した「弾き語りバージョン」も入っている。
 自分が弾き語りで歌うことを想定しているだけでなく、チャレンジングなサウンドがピンとこないファンにも、この楽曲の良さを伝えたいという配慮でもある。

 これまで、「美人演歌歌手」という括りで紹介されたこともあるが、西田あいが歌っている曲に演歌と言えるような曲はないし、そもそも演歌歌手ではない。

 何事も見かけとは違うもので、何度か歌手をやめようと思ったことがあると話す。もともと歌謡曲の歌手ということでデビューしたはずなのに、演歌という括りにされたり、演歌に近い歌詞を歌っていたからかもしれない。

 いずれにしろ、これまで歌ってきた楽曲の中には、あまりにも自分自身とはかけ離れた世界のものもあり、そこで、自分をどう表現したら良いのかに悩み、世の中から見られている西田あい像を演じるのに苦しかったのだろう。

 それが、前作の『My Story』、そして、今作の『幸せ日記』と、わかりやすくポップス寄りになったことで、もちろん、デビュー当時のマイナー調の歌謡曲も良かったが、より、西田あいの太陽のようなキャラクターに近づいた気もする。

 もともと、中高年のファンが多かったが、3年前からは、YouTuber としても活動する一面も持ち、ネット上では、10代〜20代の若者にも人気だ。

 今の時代の「新しい歌謡曲」を歌うことで、若い世代とシニア世代の架け橋になれればいいと言う。


<もくじ>

1 はじめて作詞に取り組んだ『幸せ日記』 〜「純烈のリーダーが、たまたま事務所に来てたんです…」〜
2 伝えたいことは歌詞にする前からあった 〜「言われて初めて気付いたって感じですね…」〜
3 J-POP の録音のやり方 〜「完成形がどうなるのか全く分かんなかったです…」〜
4 弾き語りバージョンと、カップリング曲『Home』 〜「リアルなこの30代女子として…」〜
5 ニュージーランドの高校に留学 〜「気持ち良かったんですよ〜…」〜

6 歌手になるために帰国、平尾昌晃と歌謡曲との出会い 〜「素直にかっこいいって思ったんですよ…」〜
7 平尾昌晃の命名、プロデュースでデビュー 〜「言葉の置き方の指導ですね…」〜
8 歌手をやめようと思ったことも 〜「実際に動いている世界と私の心が、かけ離れすぎていて…」〜
9 新しい時代の今の歌謡曲 〜「まだ、ちょっとチグハグに見えるかもしれないんですけど…」〜


1 はじめて作詞に取り組んだ『幸せ日記』 〜「純烈のリーダーが、たまたま事務所に来てたんです…」〜

 通算10枚目となるシングル『幸せ日記』は、まるで J-POP と言ってもいいようなポップス調の曲。2007年ころから J-POP の世界で大ヒット曲を連発している SoulJa(ソルジャ)が作曲を担当。青山テルマとの『ここにいるよ』『そばにいるね』などのヒットで、当時、着うたブームを作ったとも言われているアーティストだ。
 また、2019年にリリースされた 西田あいの 2枚目のカバーアルバム『アイランド・ソングス ~私の好きな 愛の唄~』をプロデュースしていることから、西田あいとは、旧知の仲だ。
 編曲を担当した YANAGIMAN も、これまた FUNKY MONKY BABY'S、ケツメイシ、エレファントカシマシ といった J-POP の世界で人気のアレンジャーだ。

 「そうですね、すごく J-POP……(笑)。完全にもう作り手が J-POP ですし、今回は、一度、今までの概念、歌謡曲とかそういうジャンルとかも捨てて、西田あいに歌わせたい世界を作ろう、"今、西田あいが歌うといいよね" みたいな曲を作ろうってことになって、ディレクターもそうだし、私も含めてみんなで決めました。」

 「SoulJa さんとは、これを作る前の年に、カバーアルバム『アイランド・ソングス 〜私の好きな 愛の唄〜』で一緒にやってるんですけど、その時は、やっぱり、既存の曲を生かさないといけないから、SoulJa さんも、こう……100%自分の持ち味を出せていなかったので、もう、おもいっきり SoulJa さんの持ち味を出してもらいつつ、おもいっきり料理してもらおうという感じで……。」

 本人も含め、スタッフみんなで、今までの概念を捨てて、新しい西田あい、今一番いい西田あいを作りましょうというコンセプトからできた曲が『幸せ日記』だ。

 「そうです。でも……、出来上がるまで、結構、紆余曲折というか……。」

 「あの……『幸せ日記』自体が、4番目に出来た曲なんですよ。最初に 3曲、カップリングに入ってる『Home』とか別な曲が先に出来てて、去年の夏くらいに。で、その3曲が出来たタイミングで、事務所で打ち合わせしてた時に、純烈のリーダーが、たまたま事務所に来てたんです。」

 「それで、"デモが出来たんですよ〜" って話しをしたら、"じゃ、聴かせてや〜" みたいな感じで言われて。で、聴いてもらったら、"いいんだけど、これだと featuring SoulJa みたいな、誰か女の子と featuring している SoulJa で、あいちゃんも、結局、誰かに作ってもらった曲を歌う人 みたいな感じになるから、新しいとこを目指してるのに、そこを抜け出さないといけないんじゃないの?" みたいなこと言われたんです。」

 「それで、"あいちゃんも歌詞書けるやろ。10年の色んな想いがあるっしょ" みたいに言われて、"そ…お…ですね…… 歌詞か……" みたいになって、それをディレクターとかに言ったら、"いいと思う、やってみようか、その形で挑戦してみようか!" ってなって、それで、その時に出来てた 3曲に一回フタをして、で、ゼロから取り掛かったのが『幸せ日記』なんです。」

 同じ事務所で、デビューも同期に当たる「純烈」のリーダー・酒井一圭が、たまたま居合わせたことから、初めて自身で作詞も手掛けることになり、その時点で出来ていた3曲のデモとは全く別に、また、新たに作ることになった。

 「そうですね、やっぱ、新たにイチから作りましょうって……。その最初の打ち合わせの時に SoulJa さんもいて、まぁ、その時、私も色んなことを言ったんです。こういう気持ちで歌いたいんだよねとか、ウソっぽいのイヤなんだよね〜とか……。なんか、コロナを経て……、なんて言うのかな……、より、こう、身近な生活の、自分が生きてる等身大での時間の捉え方だったり、流れてる風だったりとか、そういう、なんかホント当たり前のすぐそばにある身近なものを感じられるような、そういう曲が良くて……。」

 「しかも、私自身、結構ローファイの曲とか、シティポップとかにすごくハマってた時期でもあったので、なんかそういうの最近聴いてて、"すごい精神的に落ち着くんだよね" っていう話しをしてたら、SoulJa さんも "あっ、ローファイっていうアイデアはいいかもね、あいちゃんのウィスパー成分の声も合わさって、癒されるような心地いい曲が出来る気がする" って言ってくれて。」

 「で、"テーマは『幸せ日記』とかどう?" って SoulJa さんから言われたので、"それは、あの……どっちの意味の幸せですか? いままで幸せだったコトを書くのか、幸せになりたいから気付きを色々書いていく日記なのか……、どっちのベクトルの日記ですか?" って、最初は思ったんですけど……。」

 「でも、"幸せになりたいからこそ、今日のイヤなコトも、哀しいコトも、ハッピーなコトも全部書いていって、いざ振り返った時に、この積み重なったページが、"私ってこんなに色鮮やかな日々を送っているんだな" って思わせてくれる……、"それが、結局、しあわせなことなんだなって思うんだよね……" みたいなことを言えたらいいよねってなっていったんです。そしたら、それで行こうってなって。」

 作詞者のクレジットでは、西田あい と SoulJa の共作になっている。

 「SoulJa さんは、メロディと歌詞が同時に降りる方なんで、え〜っと、最初にトラック(メロディ)が出来上がって、歌い出しの3行 "雨上がりの空 水たまりに映る景色が 何だかやたらまぶしくて なぜか目が眩んで 涙がこぼれた" までのフレーズだけ歌詞が付いてたんです。そこまでは、デモに SoulJa さんの歌声で歌われていて、それ以降は、全部 "ラララ" で入っている状態でした。"じゃぁ、ココから歌詞を入れていきましょう" みたいな……。」

 「その後は、SoulJa さんと 一緒に作っていきました。私がまるまる書いたところもあるし、一緒に、"じゃぁ、そのあとは 涙とかはどう?" とか、一緒にパズルみたいな感じで組み合わせていって、ギリギリまでディスカッションしました。そういう中で、"忘れないで どんなささやかな" の Dメロも部分もあとから出来たし……、なんか、ホント作りながら、どんどんパーツが増えていったみたいな感じでした。結構、時間が掛かりましたね……4か月とか、かな……。」

2 伝えたいことは歌詞にする前からあった 〜「言われて初めて気付いたって感じですね…」〜

 「なんか、自分の中では、作詞をしたっていう感覚じゃなくて……。日頃から思ってるコトとか、結構、iPhone でメモるんですけど、"あっ、この人のこの言葉良かったなー〜"とか。雑誌で見かけた言葉もそうだし、外を歩いてて感じたこととかもそうだし……、そういうのをメモするようにしてて、そのメモから、この曲の世界に合いそうだなっていうのを抜粋して、みんなに見てもらって、で、"この部分いいじゃん" って言葉を入れていったみたいな……。だから、みんなと一緒に言葉を選んでハメてったみたいな感じで……。で、私も、"そういう形だったら作詞出来そうです" って言ってたので。なんか、こう…… "ゼロから、詞を全部自分で作ります" みたいのは、なんか、こっぱずかしいというか……、慣れてないから出来なくて……。」

 日頃から気になる言葉を集めていたということは、「いつかは自分で歌詞を書きたい」という気持ちもあったのだろうか?

 「そうですね〜、う〜ん……、純烈のリーダーのひと言が後押しになったってのはありますね。"書いてみたい" っていう気持ちが自分から出てきたものというよりは、"あっ、たしかに言いたいコトいっぱいあるな、私……" って、言われて初めて気付いたって感じですね。」

 「今までは、書いてもらったものを与えられて歌うみたいな10年で、それが当たり前だったんで、もしかしたら、知らず知らずに、自分が書きたいなって思う気持ちを抑えてたのかもしれないし……。だから、言われて初めて、"あっ!その選択肢もあるんだ!" って気付いた感じです。」

 『幸せ日記』は、言葉とメロディのマッチングがとてもいい。つまり、歌詞カードを見なくても、ちゃんと言葉が聴こえてくるし、メロディとともに、言葉が耳に残る。
 サビの一番の聴かせどころ「♪今日の想いが 今日の涙が〜」とか、サビの最後の「♪そこにあるものこそ 幸せだよ」はもちろんだが、2番のサビ前の「♪自信もないけど 覚悟はあるから」が、とくに耳に残る。

 「ありがとうございます。私もココの歌詞好きなんですよ(笑)。ココが一番、ホント、私の本音っていう感じですかね。」

 昨年、2020年の7月4日から5日にかけて、YouTube で「西田あいデビュー10周年 24時間生配信」というとんでもない配信イベントを行った時に、サプライズで西田あいの両親が登場していた。
 この『幸せ日記』を聴いた時に、それが思い出されて、両親にむかって「私、頑張ってるよ」と歌っているようにも聴こえた。だが、一方で、若者に対して、「いま、目の前にある幸せに気づいて!」と言っているようにも聴こえる。

 「あ〜っ、たしかに、それは、そうですね……、言われてみたら。でも、両親に向けて……ってつもりは無かったですけど、色んなシチュエーション、色んな年齢の人が聴いて、感じてくれる曲になったかな〜って自分でも思います。それこそ、学生さんとかだと、"ホント、今のその時間返ってこないからね!" って思うから……(笑)。今、友達と何気なくキャッキャしてる時間とか、ケンカしてることもそうだし、"先生ウザイよね、学校面倒くさ" とか言ってるその時間でさえ、あとから、めちゃくちゃ愛おしいものになるっていうのを、なんかこの歌を聴いて感じてもらえたら嬉しいし……。」

 「コロナで、私自身も、当たり前だったものが当たり前じゃないっていうのを痛感したことで、以前だったら、こういう言葉って、どっちかっていうと何か照れくさいと言うか……、"イヤイヤ、わざわざ言わなくても……" みたいな感じがあったけど、コロナのこの普通じゃない時間を経験した事で、そういうコトも、ちゃんと言葉にしておかなきゃいけないんじゃないかなって感じて……。」

 「でも、なんか、あらゆる年齢層の人、あらゆるシチュエーションで生きてる人達に届くようにってのは思っていました。だから、特定されるような一人称を持ってこないようにっていうのは気をつけました。」

 「実は、最初、恋人みたいなところに SoulJa さんが持って行こうとしたから、"絶対、違う! それはヤダ!" って言ってたんです。なんか、ラブロマンスものにしたくなくて……、好きだの嫌いだの、惚れただの、そういう何かウソっぽいのがイヤなんです。」

 「今まで、散々そういう何か "報われない……" "涙が流れて……" みたいな、そういう世界を歌ってて(笑)、自分に対して"ウソつけ!" って思ってたから、ずっと私も、それに心がついていかなかったんで……。でも、それは、演歌・歌謡曲の世界として素晴らしいと思うんですよ、現実に無い世界を表現する立場だったから。だけど、今、"そういうことじゃないコトを、やっていいよ" って言われた時に、じゃぁ、そういう世界は一回 経験したんで、"そうじゃないリアルなところでやらなきゃ意味がないな" って思ったんです。だから、恋愛物にしたくなかったっていう……。」

3 J-POP の録音のやり方 〜「完成形がどうなるのか全く分かんなかったです…」〜

 西田あいのシングル曲は、最近、徐々にポップス色が強くなってきていて、実際、昨年、2020年には、所属レコード会社の日本クラウン内でも、西田あいは「演歌歌謡曲」のセクションから「ポップス」のセクションに移動している。

 20216年にリリースされた 7枚目のシングル『最後の頁』は、1970年代〜80年代のフォークの雰囲気を持った歌謡曲。もともとは、その前の年にリリースされたカバーアルバム『あいの唄 〜Love Songs〜』に 1曲だけ収録されていたオリジナルの新曲で、反響が大きかったことからシングルカットされた。

 続く、2018年の8枚目のシングル『愛が足りなくて』は、竹内まりや『September』、杏里『悲しみがとまらない』、松原みき『真夜中のドア』、中森明菜『北ウィング』、杉山清貴&オメガトライブの代表曲の多くを作曲したポップスの作曲家・林哲司による作品。80年代のニューミュージック風で、ポップス調の3連バラード。

 さらに、前作、昨年 2020年にリリースされた9枚目のシングル、10周年記念曲の『My Story』は、その林哲司がプロデュース。メジャー調でアップテンポのシティポップ風のこの曲は、オリコン週間 演歌・歌謡シングルランキングでは 1位を獲得するヒットとなった。

 そして、今作『幸せ日記』は、完全に J-POP 風のサウンド。まるで J-POP のようにも聴こえるが、サビのメロディと言葉が、一度聴けば覚えてしまうくらい耳に残るし、聴いていて単純に心地よい。最近の J-POP に少なくない、覚えられないような楽曲とは違い、歌詞とメロディがしっかりしていて、ポップに作られている。
 そして、サウンドもさることながら、そのメロディラインも、テンションと言われるコード以外の音に行ったり、16分音符でハネているリズムが多用されりと、これまで、西田あいが歌ってきた楽曲とは大きくかけ離れているが、実にうまく歌っている。

 「そうですね……、こういうメロディは初めてです。歌録りに関しては YANAGIMAN さんが、ディレクションしてくださって……。えーっと、たとえば、リズムの取り方とか、それこそ、サビの "♪今日の想いが 今日の涙が〜" のとこだとしたら、今は、こう上下に、上と下で当たってる感じなのを、もっとこう ♪トゥックトゥック、トゥックトゥック♪ のリズムを縦の回転で立体的に円でとらえてって。」

 「あと、"♪今日の想いぃがぁ~ 今日の なぁ みぃ だぁ がぁーぁーあ♪" って、歌詞に無い細かい母音をいっぱい入れて、グルーブ感みたいなモノをちょっと意識して歌ってみよう……、みたいな感じで。YANAGIMAN さんのその教え方が、ものすごいわかりやすいんですよね。それで、ホントに、ワンテイク目と、それを言われてからのテイクは、奥行きと言うか、立体感と言うか、リズムへのノリ方が全く違ったんです。」

 さらに、『幸せ日記』のサビは、複数のボーカルトラックを重ねたダブリングになって、かつ、複数のボーカルがステレオで広がっていて、それによるコーラス効果も心地よい。

 「はい、そう、サラウンドで……(笑)。今回、えっと、メイン以外で 8本だから、トータルで 9本 ボーカルを録っているんです。メインは、結構、スルっと録ったんですけど、"次、メインの右側録ります、左側録ります、次、上録ります、上の左右録ります、下の左右録ります……" みたいな感じで、全部それぞれ録って やっと OK みたいな。」

 ボーカルが、9本も重ねられているとは思わなかった。だが、そんなにたくさん入っていても、わざとらしくなく、自然で、パキッとしているのに、やわらかさのある素直な歌声が、より広がって心地よい。

 「9本入ってるんですよ〜。で、レコーディングの時、その音源(カラオケ)って、ホントにまだデモの状態のトラックしかなくて、リズムがあって、ちょっとだけ SoulJa さんの打ってたピアノがあって……ていう感じで。それが多分、Jポップの作り方なんだなって思いました。」

 歌謡曲や演歌の場合、ボーカル録音の前に「オケ録り」と呼ばれる日があって、そこで、まず、完全なカラオケを作り、後日、そのカラオケに歌を入れるという作り方が一般的だ。
 だが、今回、歌録りの時には、ドラムなどのリズムトラックに、ガイドのピアノくらいか入っていないような仮オケで歌を録音し、その録音された歌をもとに、後から、たとえば、ギターとかストリングスなどの上物を重ねていったということだ。

 「そう、そうなんです……。ボーカルレコーディング終わってから、"今日、この後で、ギターの人に連絡してギター録ろうと思ってまーす" って YANAGIMAN さんが言ってて、"あっ、こっから音が重なるのね……" みたいな(笑)。」

 「で、後日、"一応 できました、これで 1回 聴いてもらって、そっから直しますねー" って送られて来た音を聴いたら、"えっ! 曲になってる!" ってビックリしたっていう……(笑)。だから、自分の重ねた声も含めて、ホントに歌入れの時点では、完成形がどうなるのか全く分かんなかったです。」

4 弾き語りバージョンと、カップリング曲『Home』 〜「リアルなこの30代女子として…」〜

 今回、この J-POP 要素満載のリードトラックとは別に、『幸せ日記』(弾き語り ver.)というギター1本で歌った、全く対照的なバージョンも収録されている。ギター1本という、究極にシンプルなオケなので、他の楽器にかき消されることなく、西田あいの言葉がクリアに聴こえるから、明るい響きの声の魅力が伝わるし、メロディラインの良さも際立つ。何より、言葉を語るように丁寧に歌っている印象がある。

 昨年、2020年の5月ころから、コロナ禍ということもあり、西田あいはギターを弾くようになり、6月からは、毎週日曜日の夜9時から、ライブ生配信「日9ライブ」をはじめ、その中で、毎週新たな曲に取り組み、ギターによる弾き語りを披露している。

 「ま、YouTube で、毎週末に弾き語り生配信やってたっていうのもあって……、まあ、ギター自体始めたのが、去年のゴールデンウイーク明けからだから、まだ半年とかだったんですけど、今後もギターをずっとやっていくっていうのを踏まえたうえで、"新しい西田あい" の 顔のひとつとして、ギター1本でも歌う姿を、今後、当たり前になっていくようにって "弾き語りバージョン" も入れたんです。」

 「でも、最初は、ほかにも楽器が入った "アコースティックバージョン" の予定だったんです。元のメインに入る曲が、かなりポップス色の強い、新しい音がいっぱい入ったものなので、やっぱり、100% 歌謡曲を歌ってた西田あいを応援しくれてた人達を置き去りにする訳にもいかないから、そういう人達が聴いても、"あっ、いいね" ってなるように、生楽器だけを使った小編成、ピアノ、ギターに、ちょっとしたパーカッションとか、そういう小編成で作ったものを3曲目に入れようって言ってたんです。」

 「でも、話していくうちに、"もっと余計なものを無くして、ギター1本でもいんじゃない?" っていう話になっていって、じゃぁ、一方が、もぅ盛り盛りだから、もう一方は、全部なくして超シンプルにしましょうかっていう話しになって……、あえて、対比を大きくするためにも、ギター1本にしたんです。」

 自分が弾き語りで歌うことを想定しているだけでなく、チャレンジングなサウンドがピンとこない、これまで応援してくれていた歌謡曲ファンにも、この楽曲の良さを伝えたいという配慮でもある。
 そして、カップリング曲の『Home』も、作詞にクレジットこそされていないが、歌詞のテーマを含め、楽曲制作に最初から関わった、西田あいの思いがこめられている曲だ。

 「そうです。もぅ今回は、SoulJa さんに、"私、こういうのが歌いたい" とか、"コッチの曲はこういう歌詞を入れたい" とか、全部そういうのを話して……。」

 実際には、西田あいが思っていること、伝えたいことを SoulJa に語り、それを、SoulJa が、具体的に歌詞にしていった。

 「そうです、そうです。でも、"もしもし" って始まって、全部、電話の会話だけで進行していくっていうのは、SoulJa さんのアイデアです。」

 「♪もしもしママ 元気にしてた?」で始まる『Home』の歌詞は、母親との電話の会話と、電話をかけている主人公の気持ちで進行していく。

 「これも、あの…… コロナ禍で、私もずっと家族と会えなかったりとかして、あらためて、その……、なんだろな……、今まで、私の家族って、そんなに密に交流するタイプの家族じゃないので、ホントに必要が無いければ、何か月も連絡取らないんですよ……、私は……。で、そういう家族なんですけど、やっぱ、なんでしょうね……、"やっぱ家族だな" って感じるのがコロナ禍で、なんか感じる瞬間があったんですよね。」

 「でも、メインになるものが、恋人でも、友達でも、家族でもなく、全体的に訴えられるものだとしたら、リアルなこの30代女子として、色んなものにぶつかったり、葛藤したりとか、迷いが生じる中で、なんかそういう人達が聴いて、"あっ、自分たちに向かって歌ってくれているんだな" みたに思ってもらえたらって……、そういう女性に向けた曲が歌いたいっていうところからこの曲は生まれたんです。」

 表面的には、母親との会話で構成されているが、そこに書かれている母親に対する気持ちは、実は、同世代に向けた、西田あいの素直な、等身大のメッセージだということだ。

 「あとはね、最初は、もっと英語が入ってて、これでも英語を減らしたんです。あんまり英語が多すぎると、いい歌詞なのに伝わりきらないのがもったいないから。だから、誰でも分かる英語だけを残して、それ以外は、ちょっと日本語に直させてもらって……、ただ、響きは変わらないように、同じ母音で。」

 「たとえば……、サビのところの "♪and some day この雨はあがって また青空が広がるからぁ~♪"
ってとこは、メロが上がるところだから、絶対 "あ" の母音で行きたいっていうこだわりが SoulJa さんにはあったから、じゃ、 "あ" になる様に日本語で考えようって言って……。それは、全部、1番とか、2番とかも。日本語担当は、私とかディレクターさんとかで、"じゃぁ、ココは、この日本語だといんじゃないかな" とか言って変えたりしました。」

 歌詞は、言葉の意味だけでなく、メロディに乗せた時の音、響きも大事だ。意味のある言葉であると同時にサウンドでもあって、歌い心地や聴き心地にも影響する。母音だらけの日本語とは違い、英語は子音が多いため、リズミックに言葉を乗せることができる。
 ともに、英語圏の高校に通っていた 西田あい と SoulJa だけに、ついつい安易に英語にしてしまうようなことのないよう、伝わることを意識して気をつけたということだ。

 「そうなんですよね……、響きは大事ですね〜、結構一緒に考えてました。たとえば、2番のAメロに、"♪あれ? もしもし? あ、聞こえるよ" っていう歌詞があるんですけど、そこも、英語のノリで韻も踏んでるし、英語の響きで作られてるんですけど、やっぱ、ここは、SoulJa さんからしたら気持ち悪いかもしれないけど、"Hello Hello" じゃなくて、"もしもし" じゃないと、1番の入り口も "もしもし" って言ってるし……、みたいな感じで、こう色々調整しながら、話し合って作りました。」

 言葉の響きは大事だが、日本語の歌詞だし、何より、日本人に聴かせる歌だからだ。

 「そう、そうなんですよ。」

5 ニュージーランドの高校に留学 〜「気持ち良かったんですよ〜…」〜

 最初に歌が好きになったきっかけは、小学生のころに聴いた「モーニング娘。」だった。

 「そうです(笑)。初めて買ったCDは『ハッピーサマーウエディング』です、小学校6年生の時に。あと、『I WISH』とか『恋愛レボリューション21』とかあの辺です。辻ちゃん、加護ちゃんが入って、より勢いがバーッてなった頃が、ちょうど同い年くらいだったんで……。歌って踊って、もぅ、ずーっと擦り切れるくらいビデオ見て。そう、だいぶ影響受けてましたね、ファッションとかもそうだし。入りたかったけど、"入りたーい!" って言ってるぐらいな感じでした。」

 その当時は、「歌手になりたい」と真剣に思っていたわけではなく、多くの人が思うような単なる憧れだった。
 そして、中学3年生の卒業を間近に控えた1月から、ニュージーランドの高校に進学した。

 「日本は新学期が4月からで、アメリカは9月ですけど、向こうはね、1月からなんですよ。えーっと、中学校は……、異例の扱いで卒業させてくれましたね(笑)。で、卒業式だけ、2日間ぐらい帰国して、卒業式出て、またトンボ返りで。」

 もともと、3歳から英会話を習っていたし、父親が和太鼓のグループで、国際交流として世界中を飛び回っていたこともあり、小さい頃から、家庭内には、インターナショナルな空気があった。自身も、現地の高校に進学する前、中学生の時に、夏休みを利用してニュージーランドにホームステイに行っていた。

 「その、2週間滞在してる間に……、3時くらいかな……、たまたまバスに乗ってて、現地の高校の門の前を通り過ぎる時に、校門から「See you later〜」みたいな感じで、制服着た高校の子達が出てきてるのを見たんです。そん中に日本人もいて、"うぉっ、現地の制服着て、金髪の子達と並んで、なんかハグとかしながら Bye、bye〜 とか言ってやってる…… 超カッコいいじゃん!" とか思って(笑)。それで、"私も 2週間じゃなくて、現地の制服を着て、現地の高校に行きたい!" って思ったんです……、しかも制服がかわいいトコ(笑)。」

 ニュージーランドは、世界中を回っていた父親のすすめでもあったようだ。

 「私、中も外も、お父さんに瓜二つなんですけど……、でも、小さい頃は、家にあまりいない父親への、その……なんかコンプレックスみたいのがちょっとあったんですけど、ちょっとづつ、年を重ねれば重ねるほど、何かすごい父親から影響受けてるなって自分で感じ始めて……。私がどんどん外に行きたいっていうのを後押ししてくれる、理解してくれる両親だったのもあって、それで、父親が、"行くならニュージーランドがお父さんは一番いいと思うよ。人もいいし、気候もいいし" って。それで、"ニュージーランドだったら行ってもいいよ" みたいなもとだったので、"じゃぁ行く!" って言って。」

 そこから、学校選びがはじまった。エスカレーター式の女子校や、アジア人の多い学校など、いろいろと選択肢はあったが、学力的には最もハードルが高そうな高校を選んだ。制服がかわいかったからだ。

 「でも、そこに入るためには、このぐらいの点数の学力がないといけないって言うので……、一定のレベルがないと、うちはそういう慈善事業で学校やってないので……みたいなみたいなコトを言われて。地元でも、なんて言うんですか……お嬢様が行くような学校だったみたいで。それで、ちょっとしばらく、日本の学校休んで、3か月くらいかな、そのテストに受かるために現地の語学学校に行って、その修了証書みたいのもらって、それを学校に提出して留学しました。」

 歌手になろうと思ったきっかけは、意外にも、このニュージーランドの高校に通っていたころにあった。

 「そうです。クラブ活動みたいなので音楽部に入ってたんですよ。英語の能力は地元の子達に比べたらもぅ全然及ばないけど、感性だけは自信があったんで、なんかそういうサークル的な感じは、アートとかミュージックとかそういうのにしようって思って。」

 「そしたら、その音楽サークルにいる子達だけで演奏会をしますってことになって、最初は、楽器だけだったんです。で、みんなは、ピアノとかバイオリンとかフルートとか、小っちゃい頃からやってるけど、私は太鼓しかやったことなかったんで(笑)、でも、太鼓なんてニュージーランにないから、"えっと、私、なにができますか?" って言ったら、"じゃあ、ベースが余ってるから、ベースやって" って言われて、こ〜んなにネイルが長い頃に、頑張ってベース弾いてました(笑)、その時は『カノン』をやったんですけど。」

 「で、その次に、今度は、それぞれの得意なもので発表しますってなったんです。放課後に、両親達とか、学校に関係してる支援者の方々とかそういう大人達が来て、お酒とか飲みながら子供達の発表を見るみたいな……、そういうあるんですよ、パーティーが。外国っぽいですよね(笑)。」

 「じゃあ、何をやりますか?ってなった時に、みんな、やっぱ楽器の出来る人は楽器のソロをやるって言って。私、得意なものって歌しかないから……、慣れてないですけどね……。それで、"じゃぁ私は歌を選択します" って言ったんです。でも、カラオケもないし、自分で演奏も出来るわけじゃないから、ピアノ弾ける子に "弾いてくれる?ごめんね" ってお願いして、日本から急ぎで、譜面の本をお母さんに送ってもらったんです。そん時の日本のヒット曲が入った譜面の本の中に『First Love』が入ってて、"あっ、これならサビがほとんど英語だし、なんか分かるんじゃないかな" と思って原曲のまんま、翻訳もせずに歌いました。」

 そのパーティーで、宇多田ヒカルの『First Love』を歌ったところ、思いのほか好評だった。

 「そこで初めて歌って、で、みんな "わぁ〜" みたいなって……。で、音楽に寛大な学校で、今度は、"全校集会で、こういう場を設ける事が出来るんだけど、アイ 歌ってみる?" って言うんで、"マジっすかー?" みたいな……(笑)。で、"じゃぁ、分かんないけどやってみる" って言って、今度は、中島美嘉さんの『雪の華』を、そのホール、3〜400人の前で歌ったんです。」

 「『First Love』は、小学生ぐらいの頃だったので知ってたんですけど、『雪の華』とかは、その頃、ちょうどリアルタイムに流行ってた歌で、ニュージーランドで韓国の友達から教えてもらった曲なんですけどね(笑)。だから、中島美嘉さんは、同じ鹿児島だし、もちろん知ってたけど、『雪の華』がそんなにヒットしてるって知らなくて、韓国の友達から私が教えてもらって、"あ、コレいい曲だね" って思って、私、何となく声が似てるから『雪の華』にしようと思って歌ったんです。」

 この経験がきっかけで、歌手になりたいと思うようになっていった。

 「気持ち良かったんですよ〜(笑)。なんかその……、ちょっとづつ歌う経験を重ねていく中で、なんだろう……、自分がやったことに対してもらえる拍手……、すごい緊張するし、すごい怖いけど、その快感みたいなのを覚えてしまって……、それが気持ちよくって。で、ずーっと抑えてた、ちっちゃい頃に抱いたキラキラした世界の……キラキラみたいなのが久しぶりに出てきた感じで。」

 「私としては、歌手になりたいって気持ちが芽生えなければ、そのまんまニュージーランドに残って高校を卒業して、大学行って、で、向こうで就職して、向こうで結婚して……日本にはもう帰らないって思っていたんですけど、でも、歌手になるっていう、そっちのキラキラの方に押されちゃって……。」

6 歌手になるために帰国、平尾昌晃と歌謡曲との出会い 〜「素直にかっこいいって思ったんですよ…」〜

 「歌手になりたい」と思い始めたことで、現地の高校を、2年生が終わるタイミングで、卒業せずに帰国する。

 「"私、歌手になりたい!" って思ってから、すぐに親に国際電話して、"帰ってもいい? ちょっと歌手になりたいから!" って言って……(笑)。そしたら、もう二人とも "えーっ!" ってなって(笑)。"もう、なんだかよく分かんないけど、あんたには何を言っても聞かないから、帰ってくれば?" って言ってくれたんで、"じゃぁ帰ります" って……。一度決めたらもう揺るがないみたいのを、親もよく知ってるので。最初に留学した時も、後押ししてくれたとは言え、やっぱ不安な中ね、まぁ言っても聞かないから、もう行かせるしかないみたいな状態で行ってるし、帰国する時も、"もぅ帰るって決めたから" って感じで帰ってきて……。」

 2006年の12月、現地の高校の2年生を修了したタイミングで帰国し、2007年の1月からは、プロサッカー選手を数多く輩出していることでも知られる鹿児島城西高校の芸術文化コースに編入した。

 「そうです。高校の卒業資格がないから、あと1年間、3年生を日本の高校に入らなきゃいけないっていうことで、特例で城西高校に編入させてもらって、向こうは、12月で終わって1月から新学期だけど、私はそれで帰ってきてるから、1月に、2年生の3学期から入りました。」

 ニュージーランドへの留学を斡旋していた会社の人が、その鹿児島城西高校への編入を勧めてくれた。

 「で、編入が決まって、"色々とお世話になりました、ありがとうございました" ってその斡旋会社に挨拶に行った時に、"で、あいちゃん、これから城西行きながらどうするの? 歌手になりたいって、どうするつもり? って聞かれて、"これから、どこで何が出来るか探すんですけど……" って言ったら、"ちなみに、下の階が平尾昌晃さんのミュージックスクールだけど、一応紹介だけしようか?" って言ってくれて、その場で下の階に連れて行かれて、コンコンみたいな……。」

 平尾昌晃と言えば、昭和を代表する作曲家のひとりで、布施明、小柳ルミ子、五木ひろしらをスターに育てたことでも知られる。布施明『霧の摩周湖』、小柳ルミ子『わたしの城下町』『瀬戸の花嫁』、五木ひろし『よこはま・たそがれ』『ふるさと』『夜空』、アグネス・チャン『草原の輝き』、アン・ルイス『グッド・バイ・マイ・ラブ』、梓みちよ『二人でお酒を』、中条きよし『うそ』、自らも歌った平尾昌晃&畑中葉子の『カナダからの手紙』……などヒット曲は数えきれない。いずれも、日本人の心の琴線に触れるような名曲ばかりだ。

 「それで、"こんにちはー" って行って、"歌手目指してる子なんですけど" みたいな……。挨拶しに行っただけなんですけど、"ついでだから紹介するよ〜" って言われて、それで紹介されたのが、平尾先生の愛弟子の方だったんです。初めてお会いした時に、"あっ、なんかこの人は信用できそう、いい人そう" って思ったんですよね。芸能界って、なんか胡散臭いって思ってたから。それで、もうすぐにその場で、"来週、すぐに体験来ていいですか?" って言って、そっからすぐに入りました。だから、私の場合、ゼンブ "縁" なんです……。」

 そうして、鹿児島城西高校に通いながら、「平尾昌晃ミュージックスクール 鹿児島校」にも通いはじめた。「平尾昌晃ミュージックスクール」は日本全国に展開していて、出身者には、狩人、松田聖子、川崎麻世、中村あゆみ、石野真子、森口博子、倖田來未、松原健之 ……らがいるが、平尾昌晃が鹿児島まで教えに来ることはなかった。

 「初めて平尾先生に会ったのは、通い始めて半年後くらい……してからかな、私が東京に行って。夏休みと春休みに、全国の「平尾昌晃ミュージックスクール」の生徒が集まる発表会兼オーディションが東京であるんですよ。それに、私が鹿児島代表で行って……、って、鹿児島は私ひとりしかいなかったですけど(笑)、その時に初めて会いました。テレビでヘッドフォーンをこうやって耳に当ててる人だって思いました(笑)。」

 2007年、鹿児島城西高校3年の時の夏休みに、初めてオーディションに参加し、その後、春休みと夏休みのオーディションには毎回参加した。翌年、2008年の3月に、鹿児島城西高校を卒業してからは、城西高校の系列の専門学校に入った。

 「高校を卒業してからは、歌手になるための時間を稼ぐために(笑)、キャビンアテンダントとかを目指す専門学校に行ってたんですよ。」

 その頃、春と夏に行われていた「平尾昌晃ミュージックスクール」のオーディションでは、いわゆる J-POP を歌っていた。

 「そうですね……、その頃は、Tina さんの『Tears Rain』とか、JUJU さんの『Open Your Heart 〜素顔のままで〜』とか……、とにかく、その頃、はやっていた曲とか、そっち系を歌っていました。そしたら、平尾先生から、鹿児島校の恩師の方に、"彼女は、声が歌謡曲向きだから、絶対に百恵ちゃんとか歌わせたほうがいい" みたいなのがあったんです。」

 「でも、百恵ちゃんとか、歌謡曲とか、聴いたこともないし、知らないんで……。そしたら、先生さんから、"コレを聴きなさい" って MD が届きました(笑)。いっぱい入ってました。ルミ子さんとかも入ってましたし、明菜さんとか、いろんな曲が入ってました。でも、全く演歌っぽいのはなくて、いわゆる、歌謡曲のソロの歌手がバリバリだったころの曲ばっかりが入ってました。」

 「で、"この感じなら、ゼンゼンかっこいいじゃん!" って……、素直にかっこいいって思ったんですよ。なので、抵抗なく、自然と歌謡曲の世界に入れた感じでした。」

 とくに、初めて聴いた山口百恵の『プレイバックpart2』には衝撃を受けた。そこから数々の昭和歌謡を知り、昭和歌謡曲の世界に魅了されていった。

 「今、思えば……ですけど、矢島賢さんのギターなんです……(笑)。それは、もうデビューして裏側を勉強した結果、私は、萩田光男さんのアレンジとか、矢島賢さんのギターが好きだったんだってわかったんですよ。」

 矢島賢は、当時活躍していたスタジオ・ミュージシャンのギタリストで、郷ひろみ『男の子女の子』、沢田研二の『TOKIO』や『憎みきれないろくでなし』、アリス『遠くで汽笛を聞きながら』、そして、山口百恵の『プレイバックpart2』や『横須賀ストーリー』『乙女座 宮』『ロックンロール・ウィドウ』などで印象的なギターを弾いている。
 一方、編曲家の萩田光男は、布施明『シクラメンのかほり』、久保田早紀『異邦人』、梓みちよ『メランコリー』、高橋真梨子『あなたの空を翔びたい』、桑江知子『私のハートはストップモーション』、中森明菜『セカンド・ラブ』『少女A』『飾りじゃないのよ涙は』……などの名アレンジを担当していた。

 「当時、カッコイイなって思ったロックっぽい歌謡曲は、今思うとギターがカッコ良かったんですよ。そのギターは矢島賢さんで、アレンジは必ずと言っていいほど萩田光男さんだったんです……。っていうのが、最近になって全部結びついた時に、もちろん、歌っている歌手は素晴らしいんですけど、"私はこの人たちが好きで、こっちに魅かれてたんだ" ってことがわかったんです。で、前作の『My Story』は、萩田さんにアレンジをやってもらって、ひとつ夢が叶ったって感じなんですよ。」

 2008年8月の夏休み、「平尾昌晃ミュージックスクール」のオーディションで、西田あいは、たまたま来ていたレコード会社からスカウトされた。

 「当時、クラウンのディレクターだった方に声をかけられたんですけど、その方は、それまでずっと断ってたのに、なぜか、その時のオーディションだけは行ってみようって思ったらしいんですよ。それで、私は、"もう今回で最後にしよう" って思ってたんですよ。"今は学生だからいいけど、一度、就職してから、また続けるしかないかな〜" って思いながら、"これを最後にしよう" って思って行った時が、そのディレクターがたまたま "行ってみよう" って思った時で、そこで、また "縁" があって……。」

 その約半年後、2009年3月に、歌手になるべく上京した。

 「専門学校も卒業して、成人式も出て、3月から出てきました。」

7 平尾昌晃の命名、プロデュースでデビュー 〜「言葉の置き方の指導ですね…」〜

 2009年の春に上京し、平尾昌晃のもと、約1年余りに及ぶボイストレーニングを経て、2010年7月7日、平尾昌晃がプロデュースした『ゆれて遠花火』(作詞:石原信一、作曲:平尾昌晃、編曲:前田俊明)で日本クラウンから、歌手・西田あいとしてデビューした。切ないサビのメロディが耳に残るマイナー調の平尾昌晃らしい歌謡曲で、いい歌だ。
 西田あいという芸名は、平尾昌晃が命名。デビューの時のキャッチフレーズは「〜あいにいきたい・・・西田あい〜」だった。

 「平尾先生は、音楽に対してすごく純粋な方でした。音楽バカ……ですよね……。常に、音楽のためにって考えていて、いいものを作るために……っていう選択をいつもされていたんだなって、やっぱり今振り返ると思いますね。」

 「平尾先生からは、"あいちゃんの声は何時間聴いてても疲れないから、これから、コンサートとか、自分のショーをやっていく時に、すごい強みだよ" って言われました。"普通、1時間も聴いてたら、とくにチカラを入れて歌うような歌手は、聴いてて疲れるんだよ。番組の中で1曲歌うくらいがちょうどいい 1曲入魂の人が多いんだけど、あいちゃんの場合は、1時間聴いてても疲れないから、それはすごい強みになるから、その声おを大事にね" っていうのを最初のころに言われて……。」

 「そのころは、"へぇ〜私の声って聴いてて疲れないんだ〜" (笑)ってくらいだったんですけど、なんて言うんですか……、最近は、癒される声とか言ってもらえることも多かったりするので、そういうことを考えると、それも今に繋がってるな〜って感じるし……。」

 平尾昌晃が命名した愛弟子ともなれば、テレビ番組などで、平尾作品を歌う機会も少なくない。『瀬戸の花嫁』『草原の輝き』『カナダからの手紙』……。同じ鹿児島の出身で、年齢もデビュー年も1年違いという仲の良い歌手、城 南海(きずき みなみ)とのデュエットで『愛するってこわい』を歌ったこともある。
 さらに、西田あいの 2012年にリリースされた 3枚目のシングルは、もともと、布施明が 1967年に歌った『恋』(作詞:平尾昌晃、作曲:平尾昌晃、編曲:矢野立美)のカバーだし、2015年にリリースされた 5周年記念カバーアルバム『あいの唄〜Love Songs〜』には、アン・ルイスが 1974年に歌った『グッド・バイ・マイ・ラブ』のカバーが収録されている。

 そういうポップス系の昭和歌謡曲を歌わせると、西田あいは、やっぱりうまい。声の良さに加え、その素直で嫌味のないやわらかな歌い方で、楽曲そのものの良さが伝わる。

 「平尾先生の曲を歌う時は……、歌い方の指導というよりは。言葉の置き方の指導ですね。"ホントに "あなた" って思いながら歌ってる? ホントに "好き" って思ってる? とかよく言われました。"あなた が見えてないんだよね、あいちゃんの あなた には……" とか。」

 指導のポイントは、作曲家だけに、発声とか音程やリズムなどメロディーの方を重視しているかと思えば、実際は、言葉の伝え方だった。もちろん、自身もシンガーだったこともあるだろうが、さすが、超一流の作曲家だと思わせるエピソードだ。

 「『カナダからの手紙』を一緒に歌わせていただく機会も多かったんですけど、その時も、"ホントにボクのことを恋人だと思ってる?" って言われて、内心は "思ってないよ〜" って思いながらも……(笑)、でも、"ホントに思いながら歌わないといけないんだな" って思いましたし、語りかけるように歌わないとって思いましたね。」

 「あと、『グッド・バイ・マイ・ラブ』とかでも、"あなたは右に 私は左に……" って、"別に憎み合って別れているわけでもなく、惜しみすぎてるわけでもなく、好きすぎてる感じでもなく、そのちょうどいい温度感があるんだよ……" ってことを言われました。その言葉に温度感をどう乗せるのかとかは、たしかに厳しかったなあ〜って思います……。先生が作った曲は、とくに難しかったです(笑)。」

 デビュー曲に続く 2nd シングル『ときめきカフェテラス』は、オールディーズ風の歌謡曲、そして、3rd シングルは、その布施明の『恋』のカバー。

 そして、2014年の10月から半年間、テレビの音楽番組『徳光和夫の名曲にっぽん』(BSジャパン)で、徳光和夫のアシスタントを経験。さらに、2016年10月から1年半、今度は、BS日テレの新音楽番組『歌え!昭和のベストテン』で、太川陽介と司会を担当した。
 明るいキャラクターに鹿児島なまり、さりげないキュートな仕草に中高年の男性ファンも急増し、『月見草』『雨おんな』『涙割り』(いずれも、作詞:田久保真見、作曲:平尾昌晃)と、新曲のリリースごとにジワジワと人気になっていった。

 2016年リリース、古き良きフォーク調のシングル『最後の頁』(作詞・作曲:宮田純花)でファン層を広げ、続く、8枚目のシングルは、竹内まりや『September』、杏里『悲しみがとまらない』、松原みき『真夜中のドア』、中森明菜『北ウィング』、杉山清貴&オメガトライブの代表曲の多くを作曲した作曲家・林哲司によるバラード『愛が足りなくて』(作詞:岡田冨美子、作曲:林哲司)。これも、切ないメロディのいい歌だ。

 2019年12月には、2枚目となる カバーアルバム、全曲地震で選曲した「アイランド・ソングス 〜私の好きな 愛の唄〜」をリリース。テレサ・テンの『時の流れに身をまかせ』の歌詞を、自身が鹿児島弁に見事に翻訳して歌った『時の流れに身をまかせ(鹿児島弁 ver)』も話題となった。

 そして、昨年、2020年には、林哲司プロデュースで 10周年記念曲『My Story』をリリース。メジャー調でアップテンポのシティポップ風のこの曲は、西田あいのそれまでのイメージも大きく変え、オリコン週間 演歌・歌謡シングルランキングでは 1位を獲得するヒットとなった。

8 歌手をやめようと思ったことも 〜「実際に動いている世界と私の心が、かけ離れすぎていて…」〜

 昨年、2020年の7月に、デビュー10周年となった。コロナ禍だからと言って、じっとしていられない性格で、2020年5月からギターを始め、もう6月からは、ライブ生配信「日9ライブ」の中で、毎週、ギターによる弾き語りを披露していた。デビュー記念月の7月4日から5日にかけては、前代未聞の「西田あい デビュー10周年 24時間生配信」を YouTube で配信した。

 「この10年は……、それなりに紆余曲折、デコボコ、回り道もしたので、長かったかな……?」

 歌手をやめたいと思ったこともあった。

 「やめたいって思ったことは何回かあるんですけど……。やっぱり、その……、平尾先生に書いていただいた、とくに後半のころですね。」

 「そのころの曲は、平尾先生も書くのにすごい苦労されてたんです……。作詞家の田久保真見先生が書かれる詞の世界って、本当に哀しい女の世界で、それに平尾先生はメロディを付けるのにすごい苦労をされてたんです。」

 作詞家の田久保真見の書く歌詞の世界は、基本的にはポップな平尾昌晃の感じではなく、やや重く感じる。

 「そう、そうなんです。なんか、今だったらわかる気がするんです。当時のディレクターが、"西田あいには、田久保真見さんの詞を歌わせたい" みたいなのがあって……、で、メロディはもちろん平尾先生だから、先生はものすごい苦労して作られて……、それで、ものすごい苦労してつくられているから、ものすごい難しいんですよ。音が飛びまくっていたりとか。」

 「で、悲しい詞だから、笑顔でも歌えないし、歌ってても苦しくて……。それが、等身大の私からはかけ離れた女性すぎて、なんか、いろんな意味で、全部がチグハグだったんです。そういう時が、一番苦しくて、"ヤメたい……" って思いました。」

 「未熟な私には、この詞の世界をうまく表現できなくて、だから歌ってても自分の気持ちも乗らないから、お客さんに伝わってるって手応えもないし、手応えがないから歌うのも楽しくなくて、楽しくないからヘタになって……みたいな悪循環。で、現場に行きたくない、ステージ立ちたくないみたいになって…… 今日も仕事……今日も仕事……って。」

 しかし、そんな様子を、テレビや人前で見せたことはない。そんな時でも、いつもニコニコ、明るい、変わらない西田あいだった。内心は苦しくても、それを仕事の時には見せないプロ根性を感じる。でも、そうだからこそ、余計にどんどん辛くなっていったのかもしれない。

 「『雨おんな』の時は、結構調子が良かったんですけど……、『雨おんな』の前の『月見草』のときもそうだし、『雨おんな』のあとの『涙割り』の時もそうでしたね。あのあたりが、西田あいが 実際に動いている世界と、私の心が、かけ離れすぎていて……、おいてかれるというか、取り残されるというか、自分ごとじゃないというか……、そういう感じでした。」

 でも、やめなかった。

 「やめなかったですね……。それは、まわりのスタッフの方々がいたからですね。実は、そういうことも、ずっと相談してたんですよね。レコード会社のディレクターとかって、上司みたいなもんじゃないですか。で、上司には言えないようなことも全部聞いてくれて、"でも、それでも続けていれば道は開けるから……、続けた人が勝ちだよ" みたいに言ってくれて、その一縷ののぞみにかけてやってました……、その時は。」

 本人も「私の場合、すべて 縁 なんです……」と話すように、西田あいはスタッフにも恵まれている。

9 新しい時代の今の歌謡曲 〜「まだ、ちょっとチグハグに見えるかもしれないんですけど…」〜

 デビューのころは、マイナー調の歌謡曲を歌い、どちらかと言えば「演歌・歌謡曲」が好きな中高年やシニアのファンが多かった。しかし、昨年、2020年リリースの『My Story』は、ガラッと変わり、メジャー調のシティポップ風。そして、今作『幸せ日記』では、もっと進化し、限りなく J-POP に近いサウンドとなった。さらに、最近は、若者に人気の YouTuber としての一面も持つ。西田あいは、どこに向かっているのだろう?

 「デビュー当時から 5年目くらいまでは、若かったってのもあったし、おしゃれとか、最新の流行りのものとか、どっちかと言うと、西田あいのガワでは "若い人" とつながっていて、でも、歌は、演歌歌謡曲が好きな "シニア世代" とつながっていて、その "若い人" と "シニア世代" との架け橋になれればいいな〜って思いながらやってたんです。」

 たしかに、当時 20代、おしゃれでキュートな西田あいのような歌手が歌謡曲を歌うことで、歌謡曲の好きなシニアはもちろん、同世代の若者にも訴求できる可能性がある。

 「でも、やっぱり……、作品と私が遠いから、なかなかそれもうまくいかなくて……。で、そこでもがいている時に、YouTube 一緒にやろうって言ってくれる仲間がいて、お金とか利害関係とか一回ナシにして、半分プライベートでやってみようってことで、YouTube をはじめたんです。」

 2018年3月に、自身の YouTube チャンネル『ニシアイチャンネル』を、西田あいではなく「ニシアイ」という名前で開設した。「歌手の西田あい」としてよりも、「YouTuber ニシアイ」を前面に出し、ファッションやヘアーアレンジ、メイクアップ、音に関することなど、動画を頻繁にアップした。すると、「歌手の西田あい」を知らない 10代〜20代の人気を集め、メディアからも注目された。現在、登録者数は 5万7千人を超えている。

 「私も、それまで、"もっと、こんな顔もあるし、こんな顔もあるのに……" って思ってたんですけど、歌謡曲を歌う西田あいちゃんて、そういう歌を歌う、どっちかと言うと、おしとやかでお嬢様っぽい感じのキャラクターってものがあったから、本来の私からは違いすぎるから、そういうのを出せる場がたぶん欲しかったんですね。それで、YouTube をはじめて、それは、西田あいではなくて、本名の田中愛に近いものをYouTube では出していて、そこで若い人たちとのつながりができたんです。」

 「『最後の頁』を出した時とかは、フォーク世代の方々にもウケて、それまで 60〜70代が多かったのが、そこで 40〜50代の方が増えて、一気にファンの方の年代が下がったんですよ。そのあと、ポップスの林哲司さんが曲を書いてくれるようになって、で、今回は、こういう曲で……。YouTube の方は、10代、20代、30代 なんで、その間に私が立てば、つながるんですけど、それが、まだつながりきれてなくて……。」

 「最初から……、デビューのころから、歌謡曲の魅力とかを若い人にも伝えて、上の世代とギュッとつなぐことが目的なんで、今まで、自分の力不足もあったし、楽曲の方向性とか活動の仕方の違いとか、そういうのがあって、単独でそれぞれ動いていたものが、去年から今年で、その1コづつが手の届く範囲に集まってきている状態で、"ここから……" みたいな状態です。私からしたら。」

 今回の楽曲『幸せ日記』が、方向転換ではないが、新たなスタートとなる。

 「まさにそうです。私からすると、方向転換はしてないんですよ。ずっと、若い人に歌謡曲の魅力を伝えていきたいと思っていて……。過去の良かったものは、若者たちは勝手に聴くじゃないですか、昭和レトロとかも流行っているし、今はサブスクとかでいろいろ聴けるから、百恵さんとか聖子さんとか勝手に彼らは聴いてくれるんです。だから、過去のいいものは、何もしなくても、ちゃんと歌い継がれていって、聴かれるんです。」

 「じゃなくって、いまの時代、そうじゃない、その時代時代に合った、新しいカラーを出して、歌謡曲のスタイルをやる人は絶対にいなきゃいけないんです。」

 「多分、ピンク・レディが出た当時だって、めっちゃ斬新だったろうし、新しかったはずだし、ジュリーも百恵さんも明菜さんも、当時、誰もやったことがなかったようなことを、"そんなのうまくいくわけない" って言われながらも、結局、何十年か経ったら、それがスタンダードになっているっていうことがあるように、なんか、どんどん新しい風を歌謡曲の方にも入れながら、こういう若い子たちのカルチャーと結びつくところを作らないといけないよな〜っていうのがずっとありますね。

 まさに、新しい歌謡曲を、「いまの歌謡曲」を目指している。歌謡曲とは、本来、ナツメロではなく、時代を移写す鏡で、常に新しいものであるはずだ。

 「そう、新しい歌謡曲……。だから『幸せ日記』も、サウンドだけ聴いたら J-POP に聴こえるかもしれないけど、私の中では歌謡曲の延長線ですし、これからも、いろんなタイプのサウンド……、今回はローファイっぽいサウンドですけど、もう少しレゲエっぽいのもあるかもしれないし、それこそ、シティポップに寄ったものが出てくるかもしれないし……。」

 「そういうふうに、曲のテイストが変わったとしても、軸にある歌謡曲のメロディを楽しみつつ、西田あいを出しつつ、今までは見向きもしなかった10代、20代の人たちにも聴いてもらえる……、と同時に、こっちの古いものを聴くだけじゃ楽しくなくなってきた世代、30代〜50代くらいの人たち……、これまで、山下達郎さんとか大滝詠一さんとか良質な音楽を聴いてきたけど、最近の曲でそういうシビれる曲がないな〜って思っているような人たちにも聴いてもらえる音楽ですね……。」

 「やっぱ、今の私が「King Gnu(キングヌー)」までいくと、トンガリ過ぎてるんで、なかなか難しいじゃないですか。だから、そうじゃないけど、最新曲の中で、メロディを覚えられる、歌詞もちゃんと伝わる、歌の世界もある、サウンドも新しい、だけど、どっか懐かしさがある……、とか、なんか、そういう両方に……、なんだろうな……、やっぱ "架け橋" って言うのかな……、そういう感じでできたらいいな〜っていうのがず〜っとあって、今、だんだん近寄って来てるんです。」

 「でも、まだ、ギュッとつなげるところまでは出来ていないから、まだ、ちょっとチグハグに見えるかもしれないんですけど……。」

 そうなると、次は、どういうのが来るのかが気になる。

 「そうだな……言える範囲だと……、"西田あいってこんな曲も歌えるんだね" っていう曲をまたやると思います。まだ、たぶん、挑戦していきます、"次はそういうことをやってきたか" みたいな。守りには入らないです。」

 「あと、やっぱり、歌はもちろんベースにあるんですけど、いままで、徳光和夫さんとか太川陽介さんとかと一緒に番組やらせてもらったりとかしたんですけど、そういうのも得意というか好きなんで、そういう、なんて言うのかな……、喋れて、まわせて、歌えて、バカも言ってみたいな……、そういうことも出来る……、"何屋さんなんだろうね?" って言われるくらいがいいっていうか。」

 「器用貧乏だってよく言われてて、今までは弱点だったけど、何かひとつ突出して優れたものがある方がいいんだけど、でも、いっぱい色々できるのが私だから、それはそうだから、それを武器にしようって。」

 なんでもやりたい人だし、じっとしていられない性格だ。今年、2021年1月からは、自然の中へギターをかついで歌いに行く新企画『ネイチャーコンサート』の動画配信を開始。さらに、2月には、『ニシアイチャンネル』とは別に、新たに『西田あい Official YouTube Channel』も開設した。

 「失敗するか成功するかわからないものは、とりあえずチャレンジするっていうのが、人生のモットーなんで、なんでも挑戦ですね。失敗したら失敗したで、"ああ、コレむいてなかったんだ" ってすればいいだけだし。」

 まだ途中ではあるが、ようやく、最初からイメージしていた方向に動き出した感じだ。そう言えば、以前は、テレビなどで歌っている時に、眉毛が「ハの字」になっていたが、気のせいか、最近は、何かに解放されたかのように、そういうことも少なくなった気がする。

 栗林誠一郎が作曲し、亜蘭知子が歌った『Wait Forever』(作詞:亜蘭知子、作曲:栗林誠一郎、編曲:萩田光男)という曲がある。あくまでも個人的な意見だが、西田あいの歌声や雰囲気によく合いそうな1曲だと思う。

(取材日:2021年3月16日 / 取材・文:西山 寧)




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西田あい 直筆サイン色紙を3名様にプレゼント!

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締め切りは、2021年 5月 6日 (木) まで!

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YouTube 「幸せ日記」への思い。(2021/2/4 配信)

YouTube 西田あい 10周年記念 24時間生配信


【アカペラ】鹿児島弁であの名曲を歌ったら凄いことになった!
(ニシアイチャンネルより)


西田あい ディスコグラフィー(2013年〜)


4th Single 『月見草』2013年12月4日発売

5th Single 『雨おんな』2014年11月5日発売

6th Single 『涙割り』2015年9月30日発売

7th Single 『最後の頁』2016年10月19日発売

7th Single カップリング『春の落とし物』

8th Single 『愛が足りなくて』2018年8月8日発売

9th Single 『My Story』2020年3月4日発売


2nd Cover Album『アイランド・ソングス 〜私の好きな 愛の唄〜』
2019年12月4日発売 全曲試聴

2nd Cover Album
『アイランド・ソングス 〜私の好きな 愛の唄〜』2019年12月4日発売 収録曲
『時の流れに身をまかせ (鹿児島弁ver) 』