純烈 の 小田井涼平 スペシャル ロング インタビュー!「自分らしいエンターテイメントを作りたい…」メンバー初となるソロアルバム『息子がお世話になりました。』が 2022年10月5日 発売! 書き下ろしの新曲に、カバー曲、再録音曲など全10曲収録! 読者プレゼントあり!

 

 

インタビューの最後に、読者プレゼントあり!

 

Odai Ryohei

 

小田井 涼平(純烈)

 

Album「息子がお世話になりました。」

 

 

 

★ 2022年いっぱいで純烈を卒業の 小田井涼平! メンバー初となるソロアルバム!
★ 純烈でのソロ曲の新バージョンに、カバー、新曲を含めた 全10曲!
★ 予想外の歌声の魅力に気付かされる メモリアルアルバム!
★ いろいろわかる! スペシャル ロング インタビュー!
★「自分らしいエンターテイメントを作りたい…」

 

 

 

 

 

純烈 小田井涼平ソロ曲【I.Q.ゼロの求愛】MV short

 

 

 

YouTube 再生リスト「息子がお世話になりました。」

 

 

 

 

 

 

 

リリース 情報

 

 

 

 

小田井涼平(純烈) 「息子がお世話になりました。」
アルバム CD(全10曲)/ Digital
2022年 10月5日 発売 
CRCN-41427
¥2,500
日本クラウン

 

 

 

小田井涼平(純烈) 「息子がお世話になりました。」【クラウン徳間ミュージックショップ限定盤】
アルバム CD + M-CARD
2022年 10月5日 発売 
CRCN-41428
¥3,000
日本クラウン

<CD 収録曲>
01 I.Q.ゼロの求愛 (作詞・作曲・編曲:いまみちともたか)(新曲)
02 夢遊 ~小田井のドリームプレイ~ (作詞・作曲・編曲:いまみちともたか)(いまみち作品カバー、新録)
03 青葉城恋唄 (作詞:星間船一/作曲:さとう宗幸/編曲:石井為人)(カバー曲、新録)
04 あなたのブルース(世話息子ver.)(作詞・作曲:藤本卓也/編曲:池間史規)(新ボーカルver.)
05 あなたは水夫(世話息子ver.)(作詞:岡田冨美子/作曲幸 耕平/編曲:萩田光雄)(新ボーカルver.)
06 六本木は嫌い(世話息子ver.)(作詞:髙畠じゅん子/作曲:中川博之/編曲:矢田部正)(新ボーカルver.)
07 母性本能(世話息子ver.) (作詞:丹古晴己/作曲:中川博之/編曲D.C.O)(新ボーカルver.)
08 愛言葉 (作詞:松井五郎/作曲:幸 耕平/編曲:坂本昌之)(純烈「君を奪い去りたい」カップリング)
09 I.Q.ゼロの求愛(オリジナル・カラオケ)
10 夢遊 ~小田井のドリームプレイ~(オリジナル・カラオケ)

<M-CARD 収録内容(限定盤のみ)>
1 I.Q.ゼロの求愛 -Music Video-
2 #オダシロ (小田井&白川) スペシャル 2S インタビュー
3 #オダサカ (小田井&酒井) スペシャル 2S インタビュー
4 #オダゴガ (小田井&後上) スペシャル 2S インタビュー

 

クラウン徳間ミュージックショップ限定盤

 

 

 

小田井涼平(純烈)「息子がお世話になりました。」【デジタル / 購入者特典付きパッケージ】
Digital(デジタルダウンロード商品)
2022年 10月12日 発売(2023年 1月10日 23:59 まで)
¥ 3,500
日本クラウン

<収録曲>
01 I.Q.ゼロの求愛 (作詞・作曲・編曲:いまみちともたか)(新曲)
02 夢遊 ~小田井のドリームプレイ~ (作詞・作曲・編曲:いまみちともたか)(いまみち作品カバー、新録)
03 青葉城恋唄 (作詞:星間船一/作曲:さとう宗幸/編曲:石井為人)(カバー曲、新録)
04 あなたのブルース(世話息子ver.)(作詞・作曲:藤本卓也/編曲:池間史規)(新ボーカルver.)
05 あなたは水夫(世話息子ver.)(作詞:岡田冨美子/作曲幸 耕平/編曲:萩田光雄)(新ボーカルver.)
06 六本木は嫌い(世話息子ver.)(作詞:髙畠じゅん子/作曲:中川博之/編曲:矢田部正)(新ボーカルver.)
07 母性本能(世話息子ver.) (作詞:丹古晴己/作曲:中川博之/編曲D.C.O)(新ボーカルver.)
08 愛言葉 (作詞:松井五郎/作曲:幸 耕平/編曲:坂本昌之)(純烈「君を奪い去りたい」カップリング)
09 I.Q.ゼロの求愛(オリジナル・カラオケ)
10 夢遊 ~小田井のドリームプレイ~(オリジナル・カラオケ)

<購入者 ダウンロード 特典>
① ジャケット写真にお名前入りデジタルサイン
②「小田井さんに純烈卒業、お疲れ様でした!のメッセージを贈ろう」
  ※ 小田井さんに直接メッセージを届けられます。
③ サイン&メッセージに対するコメント動画
  ※ デジタルサイン中に、メッセージを小田井本人が確認のうえ、
   個別にメッセージに対するコメントを含めて動画を収録いたします。

 

デジタルダウンロード 購入者特典付きパッケージ 2023/1/10 まで!

 

 

 

YouTube 再生リスト「息子がお世話になりました。」

 

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小田井涼平 オフィシャルサイト(2023/1/1〜)

 

 

 

 

 

 

 

小田井 涼平(純烈)スペシャル ロング インタビュー!

 

 

 

 

 

 

 純烈は、不思議なグループだ。現在のメンバーの誰一人として、歌手を目指していたわけではない。誰も歌手になりたいと思っていなかったのに、歌手なら誰もが憧れる「NHK 紅白歌合戦」には 4年連続出場中(取材時)。もちろん、ボーカルグループであることに間違いはないが、「歌手なのか?」と問われると、ちょっと違う気もする……。しかも、「スーパー銭湯アイドル」という肩書きがあり、オジサン 4人組 なのに「アイドル」とも呼ばれる……。
 
 つまり、純烈は、不思議な魅力を持った、これまでにはなかった新しいタイプのグループということだ。
 
 もちろん、「時代にフィットした」ということはあるにしても、純烈は、幸運や、単なるもの珍しさで売れているわけではない。おごらず、謙虚、素直で飾らずフレンドリー、サービス精神が旺盛で、お客さんに対しては「そんなことまでやるのか!」というくらい徹底的にやる。そうは見えないかもしれないが、常に全力で必死。メンバー全員、楽しませることが大好きで、そこに、エンタテインメントの真髄がある。単純に、歌がうまければ、歌手になれるというわけでもないし、伝わるわけではない。
 
 そして、メンバーの中で最年長の小田井涼平が、年内をもって純烈を卒業してソロになることを、今年、2022年4月に発表した。本当は、「夢は紅白!親孝行!」をスローガンに、2007年にスタートした純烈が、「NHK 紅白歌合戦」初出場を果たした 2018年の翌年、小田井涼平が 50歳になるタイミングでの卒業を考えていたが、他のメンバーの急な脱退や、コロナ禍の影響を受けて、今年にまで伸びてしまった。
 
 この取材の後、5年連続、5回目となる「NHK 紅白歌合戦」への出場も決まったから、2022年12月31日が、純烈メンバーとしては、小田井涼平の最後の仕事となる。
 
 小田井涼平は、純烈のリードボーカルではないが、2022年10月5日には、純烈メンバーで初となるソロアルバム『息子がお世話になりました。』が発売された。もちろん、これまで、アルバムやシングルのカップリング曲、ライブなどでは、リードボーカルを担当している曲もあるが、どちらかと言えば、メンバーの中で「最も歌が不安定」などと言われたりもしていた。
 
 しかし、このソロアルバムを聴くと、意外な小田井涼平の歌声の魅力に気付かされる。
 
 聴く前は、『息子がお世話になりました。』というアルバムタイトルに、実の両親と撮った家族写真のようなジャケット写真などから、もっと「ふざけたアルバムなのではないか?」と思っていたが、実際は、音楽的に楽しく、しかも、小田井涼平の歌声の魅力がよく出ている、シンプルに楽しめるいいアルバムだった。たしかに、おふざけの部分もあるが、それも、ちゃんと意図のある音楽的なおふざけで、ただ単に意味もなくふざけているわけではない。
 
 アルバムには、これまで、純烈のアルバムやシングルに収録されたソロ歌唱曲、オリジナルの『あなたは水夫』『六本木は嫌い』や、カバー曲『あなたのブルース』『母性本能』の新録音バージョンに加え、小田井涼平が大ファンと公言する BARBEE BOYS のギタリスト いまみちともたか の書き下ろしによる新曲『I.Q.ゼロの求愛』、そして、いまみちともたか の『夢遊』をカバーした『夢遊 〜小田井のドリームプレイ〜』そして、さとう宗幸のカバー『青葉城恋唄と』、実にバラエティにとんだ 8曲に、カラオケ 2曲を加えた全10曲が収録されている。
 
 純烈というグループの中では、最年長ということもあり、どちらかと言えば控えめで、バランスを取るかのように役割を演じているところもあったが、このソロアルバムでは、選曲から、スタジオ選び、コラボレーション、レコーディング時の曲の演出、タイトル、ジャケット、ミュージックビデオなど、自らの明確なイメージを主張し、細かいところに小田井涼平のこだわりが詰まっている。
 
 一度は、断ったソロアルバムの企画だったが、他のメンバーや周りのスタッフに推されて、「小田井さんがやりたいことを叶えましょう」というアルバムになった。
 
 ソロとなって、この先、「何か自分らしいエンターテイメントを作りたい」と、小田井涼平は言う。

 

 

 

<もくじ>

1 ソロアルバムを出すことになった経緯 〜「それが一番引っかかってたんですけどね…」〜
2 書き下ろしの新曲『I.Q.ゼロの求愛』 〜「そこだけは、唯一、お願いしたというか…」〜
3 既発曲の再レコーディング 〜「ファンの人たちのテイストが欲しかった…」〜
4 タイトルもジャケットも自身のアイディア 〜「どういうふうに表すのが一番いいのかなって…」〜
5 50歳を機に卒業するつもりだった 〜「そもそも、そういう人なんですよ…」〜


6 純烈、結成からの 15年を振り返って 〜「そのときは充実してたんだろうなって…」〜
7 大阪で生まれ、兵庫県川西市で育った 〜「ずっとオヤジの練習着でやってたんです…」〜
8 家電メーカーに就職、赴任地は仙台 〜「将来的には自営の仕事を継ぐんやろな…」〜
9 上京、モデルから俳優に 〜「その言葉で、めっちゃ楽になったんです…」〜
10 ソロのとしての今後の活動 〜「自分らしいエンターテイメントを作りたい…」〜

 

 

 

 

1 ソロアルバムを出すことになった経緯 〜「それが一番引っかかってたんですけどね…」〜

ーー 純烈は、リーダー 酒井一圭(さかい かずよし)の呼びかけで、2007年に「ムード歌謡グループ」として結成された。元戦隊ヒーローを中心に集められた 6人は、ムード歌謡どころか、歌は全く未経験。それでも、2010年に、シングル「涙の銀座線」で、ユニバーサルミュージックからデビューすることができた。しかし、最初は全く売れず、その後、契約が切れ、2013年からは、日本クラウンに移籍してリリースしたが、やはり売れなかった。
 
ーー ところが、2012年、ある幸運な出会いがきっかけで始まったスーパー銭湯での活動が、2015年ころからワイドショーなどで取り上げられたことが転機となり、徐々に脚光を浴び、その後、「スーパー銭湯アイドル」として一気に認知度が上がった。
 
ーー 2016年 通算7枚目のシングル『幸福あそび』、翌2017年の『愛でしばりたい』がヒットし、2018年には『プロポーズ』で「NHK 紅白歌合戦」に初出場し、結成から 11年の時を経て、グループのスローガンであり目標だった「夢は紅白!親孝行!」を実現した。その後は、毎年、紅白に出場中だ。
 
ーー グループ結成から 15年、CDデビューから 12年、注目され始めてから 6年、紅白初出場から 4年が経った今年、2022年4月、メンバーの中で最年長の小田井涼平が、年内をもって純烈を卒業してソロになることを発表。そして、2022年10月5日には、純烈メンバーで初となるソロアルバム『息子がお世話になりました。』が発売された。純烈在籍中にソロアルバムを出すという企画は、レコード会社「日本クラウン」の純烈担当ディレクターからの話ではじまった。
 
小田井: そうです。もともと僕は、もう個人的には、こういうことをやるつもりは全くなくて、粛々と、(特別なことは)何もない普通の純烈の活動の中で、普通に自然と卒業したい感じのイメージだったんで、アルバムとかも全然考えてなくて……(笑)。
 
小田井: で、久保さん(純烈の担当ディレクター)の方から、「せっかく、もう 十何年も純烈やってきたんだから、最後に、小田井涼平のソロアルバムとかでも記念にどう?」って言われて……。いや、「記念に」って言っても、レコード会社さんでアルバム出していただくってすごいことなんで、最初は、だから、丁重にお断りさせていただきまして……(笑)。
 
小田井: いや、僕は、僕なりのやっぱ考えがあって、やっぱり、その……、なんというか、結果的に、10月5日のリリースになっちゃいましたけど、お話いただいたタイミングでそっからレコーディングをやって、もろもろ完成すると、「やっぱこれぐらいの時期になるよな」っていうのはなんとなくわかってたので、そうすると、やっぱり、もうこの約1ヶ月後ぐらいには紅白の発表とかも控えてる時期に入るから、そのタイミングでソロのアルバム出すって、なんかもう、すでに辞めた先、卒業後をすごい見てる感じがするので、それがちょっと嫌で……。
 
小田井: なんていうのかな……、やっぱり、ちゃんと紅白の出場が決まるまでは、「純烈の小田井涼平」としていたかったっていう気持ちがあったんで……。なんか「アルバム出します」って言って、しかもソロだから、「なんかすげぇ先走ってる感じもするし」と思っていて、それが一番引っかかってたんですけどね。
 
小田井: まあ、でも、最終的には「そういうことではなくて……」って周りがね、メンバーも含め事務所も含め、みんながそういうふうに言ってくれたので、「だったらいいかな」っていうのと、あと、受けるにあたっては一つだけ条件がありますよと……。
 
小田井: それは、以前、純烈がカバーアルバム出したときに、今回、プロデューサーで入っていただいてますけど、大滝さんというエンジニアの方がいて、大滝さんと僕はもう一度お仕事したくて、「もう1回、大滝さんとお仕事できるんだったらやりたいです」っていう話で、久保さん(純烈の担当ディレクター)に返して、そしたら久保さん的に「OK」っていうことだったので、それで受けさせていただきました。
 
ーー 小田井涼平が、年内をもって純烈を卒業すると発表したのは、今年、2022年の4月だった。
 
小田井: うん、だから、アルバムの話は、夏前くらいですよ。ギリギリでした。6月くらいからかな〜、具体的に動き出したのは 8月くらいで。
 
ーー アルバムのタイトルやジャケット写真からは、ふざけたアルバムのようにも見えるが、実際は、音楽的に楽しく、よくできたいいアルバムだ。意外な歌声の魅力に気付かされ新鮮だ。たとえば、音楽的にふざける「米米クラブ」のアルバムのような感じもある。
 
小田井: ああ……、僕は、もう、個人的には、石井竜也さん(米米クラブ)は、ものすごいリスペクトしてるし、大好きなアーティストなんですけど、でも、今回は、別にあんまりそこを意識したつもりはないんですけど。バラエティーにとんでるよな〜っていうのは、もう自分でも……、逆に「なんかコンセプトがねぇなぁ〜」と思いながら、あれしましたけど……(笑)。
 
ーー たしかに、収録されている 8曲の曲調は、ロックからムード歌謡まで、実にバラエティにとんでいる。
 
小田井: 最終的に、カラオケ入れて全部で10曲だから 8曲……、収録曲を何にするかっていうのは、ギリギリまで決まってなくて、『青葉城恋唄』なんかは、もともと入れるつもりなかったんですけど、仙台がらみの番組(『行列のできる相談所』)に、たまたまそのタイミングで出た時に 宗さん(さとう宗幸)に会っちゃったので、宗さんに会ったら「これ入れた方がいいよね」って話になって、入れることになったんです、急に。だから、『行列のできる相談所』の出演がなかったら、多分、これ入ってなかったです。だって、おかしいんですもん、どう考えてもこの曲が入ってることは……、毛色で言うとね。
 
ーー 小田井涼平は、大学卒業後、電機メーカーに就職し、仙台に赴任して住んでいたことがあるから、仙台在住の さとう宗幸 が作曲して歌った、仙台を舞台にした『青葉城恋唄』が入っていることは、とくに不思議ではない。
 
小田井: まあまあ、そうですね。その理由付けとしてもね……。まあ、初期の頃は、結構、『青葉城恋唄』歌ってたんですけどね、もう本当にデビューがまだ決まる前の話です。でも、もう最近は、歌ってる曲ではなかったし……、とかいろいろあって、でもなんか、なんとなく宗幸さんと会っていろいろ話ししてね、この歌の良さみたいのを。で、あらためて、ご本人の「生歌」を聞くと、こみ上げてくるものがやっぱりあって。もともと思い入れがある曲だったから、どうしても入れたくなっちゃって、それで、お願いして、入れさしてもらったんですけど。

 

 

2 書き下ろしの新曲『I.Q.ゼロの求愛』 〜「そこだけは、唯一、お願いしたというか…」〜
 
ーー アルバムの 1曲目には、BARBEE BOYS のリーダーで、『目を閉じておいでよ』(1989年、BARBEE BOYS)などの作詞・作曲を手がけたギタリスト、いまみち ともたか が書き下ろした新曲が収録されている。BARBEE BOYS のファンであることを公言していた 小田井涼平は、いまみち を指名して、書き下ろしを頼んだのだろうか?
 
小田井: いや、これ、違うんです。僕は、さっき言ったように「大滝さんとお仕事がしたい」という話をして、大滝さんは自分のスタジオ「イカシタ・スタジオ」(烏賊舌音響(イカシタサウンド)スタジオ)っていうのを持ってるんですけど、僕は、そこでもう 1回レコーディングがしたかったんですよ。
 
小田井: で、そもそも、大滝さんは、ソニー(レコード会社)でプロデューサーの方だったんですね……、バービー(BARBEE BOYS)を担当していた方だったんです。で、今、現在も、BARBEE BOYS の レコーディングは、その「イカシタ・スタジオ」でやってるんですよ。
 
小田井: だから、僕、もともと BARBEE BOYS の大ファンで、高校のときに BARBEE BOYS のコピーバンドやってたぐらい好きだったので、で、その経緯をもう大滝さんもわかってるし、今回、久保さんから話がいって「大滝さんと一緒に仕事を小田井さんがやりたいって言ってる」っていうのを聞いて、「それだったら いまみち 呼んでやろうか」って連れてきてくれたのは大滝さんなんですよ。
 
ーー 高校生のころからのファンだっただけに、さぞ嬉しかっただろう。
 
小田井: めちゃくちゃ嬉しかったですよ、「えっ!マジで!」「ここで いまみちさんが来るの? え〜っ!」って思って。
 
小田井: でも、単純に、「でも、大丈夫ですか? 俺で?」っていう逆にね……。向こうは、純烈って思って来るかもしれないから、俺は本来リードボーカルじゃないから、「それでも大丈夫なんですか?」って聞いたら、「いや、経緯は全部話してるし、小田井くんの歌ってる曲も事前に聴かせてるし」って言うので、有楽町の普通の「ビッグエコー」で初めてお会いしたんです(笑)。大滝さん、久保さん(純烈の担当ディレクター)、いまみちさん、俺の 4人でビッグエコーのカラオケの部屋で……(笑)。
 
小田井: そこで、いろんな話をさせてもらったんですけど、その時、「どういう音楽聴いてきたの?」とか「どういう曲が好きなの?」って、ものすごいリサーチされたんですよ。
 
ーー そうして出来上がった『I.Q.ゼロの求愛』は、ファンキーで、耳に残るいい曲だ。「IQ」と「求愛」がかかっている いまみち らしい言葉遊びもよく出来ている。
 
小田井: そうですね。だから、いまみちさん的に、僕の今の、その「卒業までの自分の気持ちみたいなものを代弁して曲を作ってくれたらこうなった」っていうか……。だから、歌詞も、なんか最初見たときに、なんて言うのかな……、新しい世界に行きたいんだけど、何か自分の中に迷いとか不安とかいろんなことがあって、自分が……何かこう、壊れてるってわけじゃないんですけど、そういうとこをファンの皆さんに「理解してね、わかってね」っていう感じの曲なので……。
 
小田井: だから「あっ、そっちを切ってくれたんだ」と思って。「明るい希望」の方じゃなくて、「今の現状の不安を切りとってくれたんだな」っていうか……、そういう感じの曲でしたね。
 
ーー 売れている純烈を卒業してソロになるということには、不安があって当然だろう。そういうところをうまく切り取った『I.Q.ゼロの求愛』は、普通に J-POP と言って出しても売れそうな曲だ。サウンドもメロディもかっこいいし、何より、小田井涼平の歌声が魅力的だ。
 
小田井: ホントですか……? 歌は……(笑)、最初、これはもう、正直、「こういう曲は、僕どうやって歌えばいいのかわからないんですよ」って いまみちさんに言ったんですよ。
 
小田井: で、とりあえず いまみちさんからガイドでいただいた音源聴いて、なんとなく真似しながら歌ってたんですけど……、カラオケボックスとかでも、もう何回も いまみちさんの指導を受けてたんですけど……。でもね、いまみさんは、どちらかというと天才な方なので、その場の思いつきで「ちょっと、こういうふうにやってみようか」の人なんです。
 
小田井: それで、そのレコーディングのときは、それまでさんざんレッスンしたことが、1回全部白紙になり、もうイチからになって……(笑)。やってる最中も、1回歌ったら「ここもうちょっとこういうふうに」「いや、やっぱこういうふうにやってみようか」って……。だから何テイクも録って、最終的には、もう(録音)ブースの中に入ってきちゃって、2人で 狭いブースの中で、いまみちさんがリズム取りながら俺が歌うみたいなことをやって完成したので、俺も正直、途中から何が正解かわからなくなってて……(笑)、言われるままにやってて……(笑)。
 
ーー とくに、サビで高い張るところ「♪秘密に触れたい〜」「♪主役になりたい〜」などは、これまで、純烈で歌っている時には聴いたことのないような歌声で新鮮だ。小田井涼平の声の良いところがよく出ている曲だ。
 
小田井: ああ……、そうですか〜。あの……、『I.Q.ゼロの求愛』って、途中「♪ル〜ラララ〜」ってあるんですけど、あれ、もともとなかったんですよ。
 
小田井: 僕、昔、80年代の洋楽にハマった時期があって、その時って、中学とか高校 1年とか 2年のときなんですよ。そんときって、英語の歌詞って覚えられないんですよ。書いてあっても発音が全然違うから、同じように歌えなかったりするんですけど、でも、なんか、例えば、ずっと「♪オオ〜」とか言ってくれてると、そこだけすごい覚えるじゃないですか。
 
小田井: あの……、昔、バルティモラ(Baltimora))っていうグループがいて『ターザン・ボーイ』(Tarzan Boy、1985年) って曲が流行った時期があったじゃないですか。それは、もうひたすら「♪Oh〜 Oh Oh Oh ……」っていう曲なんで覚えやすい。
 
小田井: で、僕は洋楽ブームが自分の中で終わって、次、邦楽を聞き始めたときに BARBEE BOYS にハマったんですけど、 BARBEE BOYS もちょうどそのとき僕が聴き始めたときのタイミングで、『なんだったんだ?7DAYS』(1986年)とか『女ぎつね on the Run』(1987年)とかあって、『なんだったんだ?7DAYS』は、「♪Oh Oh 〜」っていうので始まる曲だったんです。
 
小田井: で、そういう BARBEE BOYS さんのテイストが、「どうしてもこの曲の中に欲しい」ってお願いして、僕は『なんだったんだ?7DAYS』からハマっちゃったので、「♪Oh Oh 〜」みたいな、「なんかフレーズが欲しいんですよね〜」って言ったら、その「♪ル〜ラララ〜」になったんですけど……。
 
小田井: 実は、なぜか いまみちさんは、僕が『あなたのブルース』(2017年 発売のアルバム『恋して ときめいて 〜純烈が綴るムード歌謡の世界!〜』収録。オリジナルは 矢吹健、1968年)のカバーをやってるのを聴いててくれて、『あなたのブルース』の「♪ラ〜 ルルラ ルルラ ルラ〜」の感じでそれを入れてくれたんです。
 
小田井: だから、僕の中では、本当にその「BARBEE BOYS テイスト」というか、そういうのもやっぱ入れてほしい……、「せっかく書いてくれるんやったら欲しいな」って思って、そこだけは、唯一、お願いしたというか……、だったんですけどね。
 
ーー この書き下ろしの新曲『I.Q.ゼロの求愛』には、日本最古の遊園地とされている東京の「浅草 花やしき」で撮影されたミュージックビデオがある。そこにも自身のアイディアが入っているのだろうか?
 
小田井: 監督にイメージを伝えて、全体は監督が考えたんですけど、その中のちょっとしたニュアンスとか、エッセンスは、僕が入れてます。
 
小田井: で、なんで「浅草花やしき」にしたかっていうのは……、そもそも、バンジージャンプしたかったんですよ、俺。茨城に、一番高い 300メーターぐらいのがあって、「これから新しい世界に飛び出すから、何か意味のある映像があって、最後にバンジーで終わるっていうのがええんちゃう」って言ってたんですけど、結果、そのバンジージャンプにロケをお願いしたら、予算の関係と、お盆の最終日か何かで繁忙期だから無理って言われたんですよ。
 
小田井: それで、バンジーやめようってなったんですよ。で、「なんかアイディアないですか?」「どこで撮りたい?」って言われたから、どのみち、それがなくなったんなら「"花やしき" で ええんちゃう?」って言ったんですよ。
 
小田井: なんで「花やしき」にしたかって言うと、『プレバト!!』(TBS/MBS系)で書いた僕の「花やしき」の絵を渡しに行きたかったんです、俺、そのついでで行けるなと思って……。
 
小田井: で、低予算で作ってますから、普段着ている私服だったりとか、あと、木馬の前で歌ったりしてるんですけど、あの衣装って、何年か前(2017年)に、僕、ソロライブをやったことがあって、そんときに自分でお金出して衣装を作ったんです、黒いやつです。あれは、発注するときに、「石井竜也さんが着そうなやつを作ってほしいんですけど」って言ったんですよ、ちょっと長めの黒いこういうやつ。
 
小田井: あと、ピエロは、普通に「ドン・キホーテ」とかに売ってるパーティグッズ用のやつで、で、まあ、遊園地で撮るんだったら、ワンカットぐらいピエロの格好をして、何か踊ってるのかなんか、道化でいいんじゃないって言って……。
 
小田井: あと、「人生ゲーム」で遊んでいるシーンがあんですけど、それは、新宮さん(レコード会社、日本クラウンの純烈担当プロモーター)の自宅から持って来てもらいましたから……(笑)。なので、衣装、小道具はお金かかってないんです、ゼロ円です。曲のタイトルの「ゼロ」にもかけてます……(笑)。
 
ーー アルバムには、もう1曲、いまみち作品『夢遊 ~小田井のドリームプレイ~』が 2曲目に収録されている。
 
小田井: この『夢遊』(むゆう)って曲は、実は いまみちさんが自分で歌ってる曲なんすよ。いまみちさんのアルバムにも入ってて、実は、最初、オリジナル曲を作るんじゃなくて、それを僕がカバーするっていう話だったんですよ。
 
小田井: で、その『夢遊』の音源をもらって、練習してやってたんですけど、「オリジナルを 1曲作ってもらおう」って話になって、途中で『夢遊』じゃなくて『I.Q.ゼロの求愛』の方に入れ替えるような感じになったんですけど……。でも、結果的に、「もうこれ『夢遊』も覚えたんだからカバーすれば」ってなって 2曲になったんです。

 

 

3 既発曲の再レコーディング 〜「ファンの人たちのテイストが欲しかった…」〜
 
ーー いまみち作品の書き下ろしの新曲とカバーの 2曲に、さとう宗幸 のカバー『青葉城恋唄』を合わせた 3曲が全く新しい曲で、残りの 5曲は、いずれも、純烈のアルバムやシングルに収録された、オリジナルとカバーのソロ歌唱曲。
 
ーー 本編最後、8曲目、メジャー調のさわやかな曲で、小田井涼平の歌声がやさしい『愛言葉』は、今年、2022年の最新シングル『君を奪い去りたい』(2022年2月9日発売)のリニューアル盤として 9月に発売されたバージョンのカップリング曲で、この曲だけ、そのままその音源が収録されているが、ほかの 4曲に関しては、新たにボーカルを録音しなおし「世話息子 ver.」となっている。
 
ーー カバー曲では、ムード歌謡が 2曲、2017年 発売のアルバム『恋して ときめいて 〜純烈が綴るムード歌謡の世界!〜』に収録されていた『あなたのブルース』(矢吹健、1968年)と『母性本能』(森雄二とサザンクロス、1978年)。
 
ーー オリジナル曲では、楽しいサンバ調の『六本木は嫌い』(2017年 発売 純烈 8枚目のシングル『愛でしばりたい』のカップリング曲)と、「♪あなたは水夫みたいね」が耳に残る マイナー 3連調、ライブでも人気の 幸耕平が作曲した名曲『あなたは水夫』(2019年 発売 純烈 10枚目のシングル『純烈のハッピーバースデー』Dタイプのカップリング曲)が、新しいボーカルで収録されている。
 
小田井: まあ、既存曲に関しては「これまでの "小田井ベスト" みたいな感じで出しましょう」って久保さん(純烈の担当ディレクター)に言われたので、『あなたのブルース』なんかも、アルバムに入ってるものなので、それはもう「僕がソロでリードを取った曲を全部入れてもらって大丈夫ですよ」って言って……。
 
小田井: ただ、せっかくなので、もうほとんどライブで歌ってる曲ばっかりだから、「もう1回、今のライブで歌ってる歌い方で、リテイクさしてもらっていいですか」つって……。それはもう「上手い、下手」じゃなくて、「"今、ライブで、僕はこういうふうに歌ってるんです" っていうのをそのままアルバムにしたいんです」ってお願いして……。だから『六本木は嫌い』の合いの手なんかも、ライブでやってることをそのまま全部放り込んで、ライブと同じことやってるっていう……。
 
小田井: ただ、まあ、途中から「GoziU」(ゴジュー)さんとコラボするっていうのになっちゃったので……(笑)。
 
ーー この『六本木は嫌い』には、若者に人気の「NiziU」(ニジュー)をもじった、アラフィフの 8人組 女性アイドルグループ、「GoziU」(ゴジュー)がコーラスで参加している。
 
小田井: そもそも、本当は「純烈さんと何かコラボレーションできないでしょうか?」っていうお話のオファーが、「GoziU」(ゴジュー)さんからあったんですけど、ただ、現状、僕の卒業とか、いろんなことを踏まえた中で、ダチョウさんともユニットを組んでいる中で、また新たに「GoziU」(ゴジュー)さんと……っていうと、なかなか、純烈本体では、難しかったっていうのもあって……。
 
小田井: でも、なんかちょうどね、山本さん(純烈のマネージャー)が、そのオファーの電話を受けてるときに、たまたま横にいたんです。で、俺、その話をずっと聞いてて、多分「なんか一緒にやってくださいって頼まれてんだろうな〜」と思ったんで、電話切った時に「今の何なの?」って言ったら、「GoziU(ゴジュー)っていうグループがあって……」って言うから、「それなら、もし先方さんがよかったら、俺、ほら、アルバム出すから、そこに入ってもらえばいいんじゃないの?」つったら、「いいっすか?」って……、「いやいや、俺は全然構わないですよ」つって、それで、こっちでやっていただくことになったんですよ。
 
ーー 「GoziU」(ゴジュー)の合いの手は、ライブっぽくて、とてもいい。
 
小田井: そうそう。ただ、「GoziU」(ゴジュー)さんも、なんていうのかな……、いわゆるクラウドファンディングでお金を集めて CD 出してる感じの、もう本当に歌をやってきた人たちの集まりじゃないんで……、ノリとしてはね。
 
小田井: ただ、なんか、俺的には……、僕はどっちかというと「広く一般の人に出すアルバム」というよりは、ファンの人たちに向けて出したつもりでいるので、どっか、ファンの人たちのテイストが欲しかったんすよ、アルバムの中に。
 
小田井: だけど、ファンの人に歌ってもらうっていうわけにはいかないから、ちょうど世代的に「GoziU」(ゴジュー)の皆さんがファンの人たちとか俺と同じような年齢で、ファン代表という形で入ってもらえばいいやと思って参加してもらったんです。
 
ーー まさに、健康センターでライブをやっている感じに聴こえる。
 
小田井: そうです、そうです。で、もともと夜のお仕事されてたりとか、そういう方々も結構いらっしゃるので、だから『六本木は嫌い』の頭にガヤ入れてもらったのは、何かその「らしさ」をちょっと入れたくて……。それを、レコーディングときに思いつきで「ちょっと、こういうふうなのをやってほしいんですけど」つったら、もうノリノリでやってくれて……(笑)、で、ちょうど歌が六本木の話だから……。
 
小田井: これもね、何でかって言うと、80年代の邦楽のアルバムを聞くと、この演出、結構あるんですよ。バーで飲んでるガヤのとこから始まるとか……、「あれを俺もやりたいな」って……(笑)。
 
ーー 『母性本能』も、ムード歌謡風のひっくり返す歌い方や、小田井涼平の「はぁい」「はいはいはいはい」「ああ〜」などが強烈に耳に残ってハマる曲だ。
 
小田井: この曲は、もう、純烈を組んで、結構、最初の頃から歌ってて、なんでこの曲を歌うことになったかっていうと、そもそも僕らが 6人時代に、まだ自分たちがデビュー曲以外の持ち曲がなくて、コンサートとかライブとかキャンペーンやるときに他の人の歌をカバーしなきゃいけないっていう状況があって、移動車の中で『魅惑のムード歌謡全集』みたいな CD をずっと聴いて曲選びをしてたら、この曲が入ったんです、たまたま。
 
小田井: で、聴いたときに「なんだ? このヘンな曲!」ってなって、「これ、ちょっと面白いからやってみたいね」って言っても誰もやりたいって言わないから「じゃ俺がやる」って始めたんですけど……(笑)。やっぱね、曲のね、インパクトがすごいっていうか……、サビが「♪母性本能〜」って叫んでるだけって、なかなかないな〜っていうか……(笑)。
 
ーー サザンクロスなら、ヒット曲の『足手まとい』とか『意気地なし』などを普通は選ぶが、この『母性本能』を選ぶところが、純烈らしい。
 
小田井: そう。だから、これはもうライブで、いつも僕がおふざけしてね、ファンの人たちとちょっと盛り上がるっていうコーナーで使ってた曲だったから、なんかお客さんもそういうふうな認識をしてくれてたので、今回も歌い直して、さらに、おふざけしてるっていうか……(笑)。
 
ーー たしかに、おふざけではあるが、曲にフィットしているから、自然で、楽しく聴ける。
 
小田井: そうですか〜? いや、そう言っていただけるとありがたいです……(笑)。
 
ーー そういうムード歌謡から、『青葉城恋唄』のようなフォーク調、『あなたは水夫』のような歌謡曲、そして『I.Q.ゼロの求愛 』のようなロックと、実にさまざまなタイプの曲が収録されているから、歌い方も曲によって大きく違う。しかし、いずれも、無理なチカラが入ってないから楽に聞けるし、声の良さが引き立っている。
 
小田井: ホントですか〜? いや〜、ありがたいですね〜。僕……、なんかちょっと、年の割には幼い声になるときがあるんで、あんまり 自分の声 好きじゃないんですけど……(笑)。

 

 

4 タイトルもジャケットも自身のアイディア 〜「どういうふうに表すのが一番いいのかなって…」〜
 
ーー ソロアルバムできあがって、小田井涼平は、どう感じたのだろう?
 
小田井: いやもう、自分では……、やっぱり恥ずかしいっすよね。うん……、なんだろう……、こういうことをやろうと思って音楽活動してこなかったから……、純烈の中の一員としてはそのつもりではいますけどね。
 
ーー もっと言えば、純烈に入る前は、そもそも歌手になるつもりもなかった。
 
小田井: そうです。だから、自分でソロアルバムを出すとかって、自分の頭の中になかったから、だから、ちょっと恥ずかしかったんですけど……。
 
小田井: でも、最初は、なんかちょっと「え〜っ」って思ったけど、結果的に、純烈が「夢は紅白!親孝行!」っていうのをスローガンでやってきて、自分が卒業するっていうことを発表して、僕、唯一、引っかかってたのが、仮に、今年も紅白出られたとして、31日のステージが最後になったとした場合、はたから見たら、それはすごく理想的な終わり方ではあるんですけど、僕個人としては、「ありがとうございました」という場面が全くないまま卒業するんですよ……、わかりますぅ?
 
小田井: これだけファンの人と近い距離でやってきたのに、最後の最後に、ファンの人に直接「ありがとうございました」言わずにやめるってのが、僕の中でものすごい引っかかってて……。だから、そこだけ「なんか引っかかるんだよな〜」ってずっと違和感としてあった中でのこれ(ソロアルバム)だったので、だから、それ(ありがとうを言うこと)の代わりがこれ(ソロアルバム)なのかなって思って。
 
小田井: だから、このアルバムのタイトル決めるときに、「夢は紅白!親孝行!」と何かリンクしたワードにしたかったっていうのがあって、考えて、『息子がお世話になりました。』ってタイトルにしたんです。何かファンの皆さんに対して「ありがとう」っていう気持ちを、どういうふうに表すのが一番いいのかなって考えてて……。
 
小田井: 最初は「夢は紅白!親孝行!」をそのまま使おうと思ったんですよ、僕。だけど、これは純烈のスローガンだから、そのうちどっかで、純烈が、そのタイトルのアルバムを出すかもしれないし、そのときに、俺が先に使ってたら申し訳ないなってのがあって……。だけど、なんかそれ(「夢は紅白!親孝行!」)に対するアンサーだったり、何か近い言葉にしたかったので、まあ自分も卒業するし、僕は「ファンの皆さんにお世話になりました」っていう気持ちはもちろんあるんですけど、こうなってくると、親孝行っていうワードに対して何がいいのかってなったときに、「親なんだよな〜」って思って……。
 
小田井: やっぱり、両親がファンの皆さんに対して、仮にステージに上げて「うちの息子は今日で卒業ですって、ひとこと皆さんに挨拶してよ」って言ったときに、最終的に「息子がお世話になりました」って言うよな〜って思って……。だから、もうそれをそのままタイトルにして……(笑)
 
ーー 両親と一緒に写っている家族写真のようなジャケット写真で、題字(アルバムタイトル)は、母親の手書きだ。
 
小田井: で、タイトルは、これにしちゃったら、「親に出てもらうしかねぇよな」と思っちゃって……。これ(ジャケット写真は)「マルベル堂」さんで撮影したんですけど、撮影で親が出て上京したときに、母親に題字も書かせたんですよ、「それは、俺の字じゃない方がいいでしょ」って言って。
 
小田井: 最初は父親に頼んだんですよ、一応、主(あるじ)だからね。そしたら、オヤジは、「いや〜、もう最近は手が震えてうまく書かれへんから、お母さんに頼んでくれ〜」って言われたから、「じゃあ、もうオカン書いてくれ〜」って言って。
 
ーー しかし、よくご両親も出てくれたものだ。実の両親が写っているジャケット写真など見たことがない。
 
小田井: 父親は、もうどっちかっていうと、反対でも賛成でもなくて、どっちでもいいというか、むしろ「やりたい」っていう感じなんすけど、母親がもうギリギリまで「もういやや〜、もうやめて〜、そんなん恥ずかしいもう〜」っていうのはずっと言ってたんですけど、最終的には「記念やから」つって。
 
小田井: うちの両親は、結構、バラエティー番組とか、今までさんざん出したので、「今まで、さんざん露出してんねんから、今さら恥ずかしいも糞もやろう」つって言ったら、最終的に出ることになったんです。
 
小田井: 本当は、妹がいるんで、妹も一緒に出したかったんですけど、妹は最後の最後まで抵抗したので……(笑)、「もう、ええわ〜、お前は」つって……、へへへ……(笑)。
 
小田井: だから、この日、撮影したときに、俺も家族写真とか何十年も撮ってないから、それも兼ねて……、あと、親の遺影も兼ねて全部写真撮ってもらいました。いや、本当に、僕も遺影も撮ってもらいました、はい……、親には言わずに……(笑)。
 
ーー この小田井涼平の髪型と衣装も、自分のアイディアなのだろうか?
 
小田井: これは、頭はもうこれウィッグなんですけど、もうどうせなら、やっぱりなんていうのかな……、フォークソングブームとかあの辺の時代のジャケットにしたいなって言うてて、最初、「モノクロでもええか〜」って話もしてたんですけど、結局、カラーになったんですけど……。なんか、当時の髪型って、俺の今のこの長さじゃできへんなと思ったんで、で、「ウィッグでええか〜」って思って。
 
小田井: これね、実は、そもそも元になるヒントがあって、奥田民生さんが、昔、自身のジャケットでやってるんすよ、これ。で、俺、それをやりたかったんです。奥田民生さんのソロアルバムやったと思うんですけど、民生さんもウィッグかぶって、白のタートルネック着てる写真があるんですよ。それをずっと覚えてて、見せて「これをやりたい俺は」つって……。でも、俺、ヒゲがあるから、たぶん、堀内孝雄さんみたいになるなと……(笑)。
 
小田井: でも、結果、この写真見たときに『青葉城恋歌』入れといてよかったな〜って……、デビュー当時の宗さん(さとう宗幸)になってるから……はははは(笑)。
 
ーー ところで、こうして完成したアルバムを聴いた 小田井涼平の妻である LiLiCo はどう思ったのだろう?
 
小田井: いや、あのね、うちの奥さんの反応は、「パパ、こんな声で歌うんだ〜」って言ってましたね……ははははは……(笑)。「えっ? なんで?(これまでも)歌ってるやん」って言うと、「いやいや、シュワシュワとかしか言ってないじゃん」とか言って……。

 

 

5 50歳を機に卒業するつもりだった 〜「そもそも、そういう人なんですよ…」〜
 
ーー 小田井涼平は、年内をもって純烈を卒業してソロになることを、今年、2022年4月に発表した。本当は、「夢は紅白!親孝行!」をスローガンに、2007年にスタートした純烈が、「NHK 紅白歌合戦」初出場を果たした 2018年の翌年、小田井涼平が 50歳になるタイミングでの卒業を考えていた。だが、そもそも、なぜ、卒業しようと考えたのだろう?
 
小田井: それは、思ったというよりも……、何かずっと……、急にポンていうんじゃなくて、もう実は、純烈を始めたときから、「どっかにゴールを設けないと、自分が頑張れないと思う」っていうか……、そもそも、そういう人なんですよ。
 
小田井: でも、結成した当時って、「紅白に出る」とかっていうのは、一応、言ってはいるけど、「無理だろう」とは思ってたので、だから、より鮮明に目標を、要する「にここで終わる」っていう線引きをつけておかないと怖いなっていうのがあったんですよ。
 
小田井: で、俺は、本当は 40(歳)ぐらいで 1回やめるつもりでいたんです。それはもう、紅白とかそういうのが何もなくて、純烈が何もいかなかったときは、「そこで区切らないと次の仕事ができないな」っていう単純な大人の理由で。
 
小田井: だけど、なんとなく 40代前半あたりから、純烈が健康センターを中心に、ちょっとずつちょっとずつ仕事が増えてきてたっていうのもあって、その段階で、少しずつ少しずつ後ろにずらしていってたんですね、自分の目標を。
 
小田井: で、結婚したちょうど 47(歳)ぐらいのときから、紅白が見えてきちゃったので、「だったら、もうこれは……」って……。
 
小田井: そもそも、我々は、今、ありがたいことに 4年前連続で(取材当時)紅白に出させていただいたんですけど、本当は、僕ら「1回 出られたら、もうそれでいい」って、メンバー全員が思ってたんですよ。だから、そのつもりで、「1回(紅白に)出たら区切ろう」って、もうそこで明確に線引きしたんですよ。
 
小田井: そしたら、結婚した翌年に 紅白 1度目が出られたので、やっぱり 1回で出たら、その翌年は当然、「紅白に出場した歌手」として仕事も増えるじゃないですか。そこで、すぐ「やめる」は、いくら何でも無責任やと思ったから、「(紅白に)出て、翌年の 1年間はやります」と……、という感じだったんですね。
 
小田井: だから「もう 2年目の紅白は行かない、目指さないです、僕は」っていうノリだったんですけど、友井先生(もとメンバーの友井雄亮、2019年に脱退)のことがあったので……、もう、おのずと 1人先にメンバーがいなくなってしまったので、そこでまた「やめる」ってわけにはいかなくなっちゃったので、自動的にというか、事務所の人と話して、「もう、とにかくやります」と……。なんとなく純烈が軌道に戻るまで、そこまで責任持ってやりますっていう形で伸ばしたんですよね。
 
小田井: で、そしたら、その年も 2年目も(紅白に)出られたので、「あっ、行けた〜」と思ってたら、今度は、コロナですよ……。で、(卒業が)伸びて、また伸びてっていうのがず〜っと続いて……、で、今回のこのタイミングで、っていう感じです。
 
ーー 最近は、ずっと足が痛いのを我慢してステージに立ち続けていたりもした。
 
小田井: もちろん、足だけに限らず、やっぱね、体力的には、やっぱ 40半ばぐらいから年々しんどくなってたのは事実で、それは、純烈のスケジュールが以前よりも、どんどん忙しくなってきたっていうのも重なってたんですけど、旅(地方公演)が多いので、やっぱり「移動とコンサートと、また次の日に、別の場所でコンサート」っていうので、なんかね、どんどん疲れが取れなくなってきて……(笑)、蓄積していくようになってきて、なんとなく「これから先キツイな〜」っていう思いはどっかにずっとあって……、でも、なんか元気は元気なんすよ。
 
小田井: でも、その元気さがゆえに、何かこう……、無理っていうか……まあ、無理もしてたんですけど、このまま続けて、たとえば、今、51(歳)じゃないですか、自分が仮にこっから 10年 純烈だったとして、60(歳)とか年重ねたときに、グループだから何があるかわからないでしょ。急に「解散」ってなったときに、「60(歳)で放り出されたら、俺どうしよう?」とか、「55(歳)で(純烈が)なくなったらどうしよう?」とかっていうことを、ちょっと考え始めて、やっぱ、そのリードボーカルの白川は、今、純烈で歌ってる曲は白川の声なので、純烈なくなってもやれると思うんです。
 
小田井: でも、僕らコーラスの人間って、「これ、いきなり放り出されたら、すごい路頭に迷うな」って思い始めたら、ちょっと不安になってきて、だから、どっかやっぱ自分がまだ元気なうちに、自分から退いた方が、「自分の食いぶち自分で探す」じゃないけど、やれるかな〜と思って……、「これ 60(歳)からやったら無理やで、俺〜」って思ったんで。
 
小田井: だから、もう本当に最後の挑戦ですよね。もう「ここギリかな」みたいな。体力とかもそうだし、あと、もう見た目の問題も含めて……(笑)、こっからどんどん年とっていくだけなので……(笑)、だから、「いろんなことを考えた結果、ここに落ち着いた」みたいな感じですね。

 

 

6 純烈、結成からの 15年を振り返って 〜「そのときは充実してたんだろうなって…」〜
 
ーー 2007年の純烈 結成から 15年、最初の 9年くらいは全く売れなかったが、今、この 15年間を振り返って、どういう思いがあるのだろう?
 
小田井: いや、僕は……、どちらかというと、やっぱり、結成からずっとこう振り返ったときに、今も、もちろん楽しいし充実してるんですよ、金銭的な部分とかも当時に比べたら圧倒的にラクになったし、そこはそこで、ものすごく充実してるんですけど、本当の精神的な部分とか、仕事に対する面白さの充実度で言うと、実は、売れてないときの方が楽しかった〜って……、それはものすごく思うんですよね。
 
小田井: やっぱり、当然、関わってくれる方々が増えてくれば、自分が今までメンバーだけでなんとかしなきゃいけなかったものを人に振ったりとか、誰かがやってくれたりするじゃないすか。そうすると、自分たちの負担がどんどん減ってくるから、今の状況になるんですけど、なんか、最初の頃って、もうスタッフもいないし、自分たちで何とかしないとどうにもならなかったから、純烈の中身にメンバーが全て関わってきてたので、そこがやっぱ楽しかったなって……、モノを作るという意味でね……、それは思いますね。
 
小田井: だから、売れてなかった 9年、いろいろありましたけど、そっちの思い出の方が、僕は鮮明に残ってたりするんですよね……、紅白の本番のステージを除けば。
 
小田井: やっぱり、「あのとき、こういうふうなことやったな」とかって、最近、やっぱ、自分の卒業が近づいてくると、こうやってインタビューとかで、過去のことを強制的に振り返させられるじゃないですか、そのときに、ぱっと浮かぶのは、やっぱ売れてないときの思い出ばっかりなんですよね……、自主的に何か言うときはね。「あのときはどうでしたか?」って聞かれれば、そのときの思い出ですけど。
 
小田井: だから、多分、大変だったんだけど、自分としては、多分、そのときは充実してたんだろうなっていうふうに思うんですよね、やっぱり。
 
小田井: でも、なんか、そういうもんかもしれへんなと思ってね、グループって意外と……。安定とか充実みたいなものを得られるけど、なんか、とんがってた自分とか、なんかこうギスギスしたり、悩んでたりっていう部分の方が、結果的に、のちのちそれが全て原動力になるから、そっちが残るんやなと思って。だから「オネエキャラ」とかやってた時代が懐かしい……はははは……(笑)。
 
ーー 今は、あまりに忙しすぎるから、そう思うのかもしれない。
 
小田井: う〜ん……、かもしれないですね……。
 
ーー そんな中でも、やはり、「夢は紅白!親孝行!」のスローガンどおり、2018年、『プロポーズ』で「NHK 紅白歌合戦」に初出場した時のことは、鮮明に覚えている。
 
小田井: もう、本当に、その紅白の一番最初のステージって、本番と家に帰る翌朝までがワンセットになってて、思い出としてね。結局、あの年って、前年が「ひょっとしたら出られるかもしれないな」ってノリの中で出れなくて、その発表の日が、LiLiCo の誕生日だったんですよ。
 
小田井: 当落で落ちたってわかったときが誕生日の日で、伊丹空港で聞かされたんですよ。で、僕、そのまま家に電話して「誕生日やのにごめんな、紅白あかんかったわ〜」つって、で、ウチの奥さんは「1年間、また頑張ったら、絶対、来年出られると私は思ってるから」とかっていう感じで、それも踏まえての翌年の紅白だったんで……。
 
小田井: で、その初紅白の時は、テレビの密着も入ってて、家帰ったらカメラのクルーが待ってて、その時、初めてうちの両親がうちの家に遊びに来て、僕らは、本番で NHKホール にいましたけど、うちの両親は、LiLiCo と LiLiCo の友達と一緒に、家でテレビ見てたんです。
 
小田井: だから、家帰って、両親とも話して……とかって、何かその、本当に、紅白っていうのを通して、もう「家族の祭り」やったんですよね、1年目って。だから、その思い出が、やっぱすごい残っていますよね。

 

 

7 大阪で生まれ、兵庫県川西市で育った 〜「ずっとオヤジの練習着でやってたんです…」〜
 
ーー 人の基本的な部分は、育った環境によるところが大きい。小田井涼平は、どんな子供だったのだろう?
 
小田井: 僕ね、大阪の此花区(このはなく)ってとこで生まれてるんですよ。で、僕の生まれた時代って、昭和の46年なんすけど、思いっきり世の中は公害の時代です。工業地帯だったんで、僕、小児喘息にかかるんですよ。それも明らかに公害でなったやつで、公害認定患者だったんすよ。国から医療費もらいながら生活したんすけど、でも全然治らなくて、3歳ぐらいのときにかかったんですけど、何回か死にかけてるんすよ僕。
 
小田井: で、さすがに親が、「もう、このままここに住んでたら、この子、死んでまう」ってなって、病院に行ったら、「もう、とにかく環境のいいところに引っ越しなさい。そうしないと、もう治らないから」って言われて、それで(兵庫県の)川西(市)に引っ越したんですよ。
 
小田井: で、環境のいいとこに引っ越したんで、今は、もう都会になっちゃったんですけど、当時、川西は、もうすげぇ田舎だったんすよ……、それこそ何にもなかったんです、駅にも駅員さんもおらんような。
 
小田井: 周りに自然しかなかったので、だから、僕、幼少期は、もう本当に、虫捕まえて、ザリガニとって、カエルとって……、家の前に川が流れたんすけど、夏場なったらホタル飛んでるしみたいなノリだったから、もう本当にね、そういう遊びでした。
 
小田井: 田んぼがひたすらあるんで、冬場はもう稲刈り終わったあとじゃないすか。だから、凧揚げやってとか、もう本当に子供らしい子供でしたよ、うん。ちゃんと、ガンプラにもはまって……、ははははは……(笑)。
 
ーー 中学、高校と、その兵庫県川西市で過ごした。
 
小田井: 中学のときは、僕は、陸上をやってて、「走り高跳び」をずっとやってたんですけど、ただね、僕も、途中でもう部活行かなくなっちゃったんだよな……、2年生ぐらいのときに。
 
小田井: なんでかって言うと、陸上部の先輩が「走り高跳び」の県の代表になるようなすごい選手だったんですよ。「走り高跳び」って、各校から 1人ずつしかエントリーできなかったで、その先輩がいるから、いっつも出れないんですよ。そうなっちゃったんで、僕、「3種競技」とかだったんですよ。
 
小田井: 要するに「100m」「走り高跳び」「砲丸投げ」っていうのがあって、でも、「100m」も「砲丸投げ」も全く練習してないから、ええ成績取れるわけないから、もうやりたくなかったんですよ。そういうのもあって、やめちゃって、だからもう途中からは、もう本当に……、それこそガンダムとかそういうのが好きだったので、今の趣味の方に流れていってましたね。ガンプラ作ったりとかしてましたよ。あとは、もうさっきも言った目の前に川が流れてるんですけど、フナ捕ったり、コイ捕ったりとか、もうほんま、そんな感じです。
 
小田井: で、高校に入ってバレーボールを始めるんですけど、それも理由が……、なんか当時って「部活入らなあかん」みたいな空気あったでしょ。で、「何部に入ろうか?」ってなったときに、ウチのタンスの中にバレーボールの練習着が入ってたんすよ。で、親に聞いたら、オヤジがが若いとき、バレーボールやってたんですよ。で、練習着あるし、一式、道具があるからバレー部入ろうってなって、入ったんですよね……(笑)。だから、高校のとき、ずっとオヤジの練習着でやってたんです。
 
小田井: で、結局、バレーボールはちゃんとやったんで、大学入っても 4年間、体育会のバレーボール部ですね、はい。バレーだけは、そうですね、大学もやりましたね。
 
ーー 高校卒業後は、地元の兵庫県神戸市にある神戸学院大学に進学した。大学卒業後は、普通に就職するつもりだった。
 
小田井: そうです、そうです。なんか、僕らのときって、もう本当にバブルが崩壊した翌年入社の年で、僕らの 1個上の先輩たちは、もうめっちゃバブルのいいときに就職して、僕らのとき急に冬になるんですけど、そういう時代だったから、なんかみんなとりあえず大学に行って就職先を見つけるのがもうスタンダードっていうか……。だから、別にそれに対してみんな何の疑問も持たないというか……、だから本当に、いい会社に入るの目的で大学行ってたみたいな感覚でしたね。

 

 

8 家電メーカーに就職、配属先は仙台 〜「将来的には自営の仕事を継ぐんやろな…」〜
 
ーー 大学を卒業して、地元、神戸にある家電メーカーに就職した。
 
小田井: 僕は、家電メーカーでも、テレビのアンテナを作る会社に行ったんです。神戸に本社がある会社だったので、地元で働きたかったから、そこにしたんですけど……。
 
小田井: 最初、1ヶ月間、研修やったんですよ。その 1ヶ月の研修の間に、1週間ぐらい自衛隊に体験入隊させられたとか、亡くなられた 藤本義一 さんとかと対談させられたりとか、何かそういうのがあって、どうやら何か途中から、なんていうかその新入社員の中の代表みたいな役回りを俺がやらされることになり、新社員、結構、数いたんですけど、配属先が発表になったときに、なぜか俺だけが 1人 仙台に行かされることになって……。
 
小田井: で、俺、もうその当時は「うわ〜っ……」て思ったけど、のちのち結果的に会社やめるじゃないですか……、で、やめる時「どうせやめるから聞こう」と思って、当時、人事やってた人に「なんで、俺、仙台だったんですか?」って聞いたんですよ、気になってたから、ず〜っと。
 
小田井: そしたら、「いや、みんなの中でもしっかりしてるし、ちゃんといろんなことを、こっちが与えたミッションを全部やってくれたから、お前やったら 1人で行かせても大丈夫やって思ったからそうした」って言われて、「マジか!」と思って……、「もっと手抜けば良かった」って思って……(笑)。俺も、研修中は「評価されなあかん」と思ってるから、一生懸命やったんすよね。でも、結果的に、一生懸命やらん方が良かったんよ………はははは(笑)。
 
ーー 新入社員の中でも、ずば抜けて優秀だったということだ。いずれにしろ、入社して配属された先は、仙台だった。
 
小田井: とにかく仙台で働きたかったわけじゃないから……、僕は、実家が自営で商売やってたので、「将来的には家の仕事を継ぐんやろな、長男やし……」って気持ちがちょっとあったんです。
 
小田井: 家は、建具屋だったんですけど、僕、高校、大学の時、休みの時は、結構、家の仕事、手伝ってたんです。とはいえ、いきなり仕事を継ぐよりも、お金の流れとか、世の中の仕組みを知っておいた方がいいからと思って就職したんです。就職して何年か、何て言うか世間の流れを勉強して、その後、家に戻って、いわゆる職人としての技を修行すればいいっていう計画だったんです、最初は。だから、(地元の)神戸の会社が良かったんですよ。そしたら、ほら、道路とか、土地のことにも詳しくなるじゃないすか。でも、地元のはずだったのに、仙台になっちゃったから……。
 
小田井: で、一応、仙台に行ったときに、当時の営業所の所長は「辛抱したら、何とか本社に掛け合って戻れるようにしてやるよ」みたいな感じやったんすけど、阪神淡路の大震災が途中であって、当然、本社は神戸にあるんで、働いてる人たちの中でも家が倒壊したり、家族が亡くなったり、ご本人が亡くなった方もいると思うんですけど、そういうのがあって……、僕は、実家が川西だったんで、ちょっと離れてるから、実家も何事もなくて、僕自身も何事もなくて。で、結局、それで、「本社周りで何かしらの被災した人たちを先に戻そう」ってなったんすよ、家が大変だから。俺は、それにあふれてしまったんです。それで(3年間の予定だった仙台赴任が)延びた。
 
小田井: そしたら、今度、それから、ウチ(仙台)の「営業所」が「支店」になって、支店長が外から来て、「あと 2年 辛抱して 5年でなんとか……」って言ってたんすけど、4年目でその支店長が転勤していなくなって、その約束もまたなくなって、5年目でまた帰れなくなって……。その時、28(歳)やったんですけど、その当時、仙台で彼女もいたし、「もう、このままここにおったら、俺、絶対、こっちの人と結婚する」と思って、「それは、まずいな〜」と思ってて、で、まあ、モデルもやってたから、「会社やめるしかないかぁ〜」って思ったんす。
 
ーー 仙台では、会社の仕事のほかに、モデルの活動も始めていて、「JA東北」や「山形新聞」などの CMに出演したりもしていた。
 
小田井: でも、なんか、関西から、いきなり宮城に行ってるじゃないすか……、途中、東京あるじゃないすか。東京に行ったことなかったんで、「28(歳)やろう……」と思って、「2年間、30(歳)までは、もうちょっと好きなことやってもいいかな〜」と思って、「2年間だけ東京に行こう」と思って……。で、会社やめて、東京行ったんです……。

 

 

9 上京、モデルから俳優に 〜「その言葉で、めっちゃ楽になったんです…」〜
 
ーー 仙台で 約5年間 勤めた会社をやめ、東京に引っ越した。しかし、モデルを本格的にやりたくて上京したわけではなかった。
 
小田井: で、なんでモデルやったかってのは、モデルしかできなかったから……、会社やめてしまうと。で、東京のモデル事務所を、仙台のカメラマンの人に紹介してもらったんですね。
 
小田井: 本当は、上京して、最初、いきなりすぐモデル事務所っていうんじゃなくて……、話を短くするためにそうしてたんすけど、本当は、芸能界に何か携わる仕事がしたかったから、何でもよかったです、モデルでも役者でも、何でも………。でも、役者やったことなかったから、わからないので、そしたら、紹介してくださったカメラマンの方が、東京の代理店の方を紹介してくださって、その方が おひょいさん(藤村俊二)ところの、あとで離婚されたんですけど奥さんが社長だったんで、その方を紹介してくれて、行ったら、おひょいさん(藤村俊二)ところだったんですよ。
 
小田井: で、僕、その おひょいさん(藤村俊二)の現場にいきなり行って、「東京で、ちょっとこういうことやりたいんですけど……」って言ったら、「わかった」つって。ちょうどその時、おひょいさん(藤村俊二)舞台やってて、「今、ちょうど、僕、舞台やってるから、現場見学がてらお手伝いでおいで」って言われて、2日間だけ……。その時、まだ仙台に家を置いたまま、こっちで家探しないといけないんで、東京に物件探しに来たついでに行ったんです。
 
小田井: その後も、おひょいさん(藤村俊二)の付き人みたいなことやろうかなと思ったんすけど、でも、2日間の間に、やっぱり向こう、おひょいさん(藤村俊二)たちは、そのつもりで僕を面倒見てくれてはったから、いろんなものを見せてくれたんですよ。そしたら、僕以外にも付き人の人が 3〜4人 いてはったんですよ、すでに。で、俺、そんときに、「いや、これ、でも……、この人たちいるから、俺、これ入っても、この人たちが先なんちゃうん?」って思っちゃって、「俺、べつに付き人をやりたいわけじゃないからな〜」っていうのがあって、だから、結局、僕、おひょいさん(藤村俊二)のとこには行かなかったんです。
 
小田井: だけど、その2日間て、やっぱり当時の おひょいさん(藤村俊二)って言ったら、もうやっぱり、めちゃめちゃ売れてる時代やったから、あの 2日間で、まあ〜芸能界のど真ん中見してもらったんで。
 
小田井: だって、僕、いてるときに、本当、それこそ CX(フジテレビ)の人たちが、三谷さん(三谷幸喜)の作品の打ち合わせとかしてはったし、「すげえ〜、三谷幸喜の話してる!」とか思いながらやったから……。で、夜は夜で、(藤村俊二が)バーやられたから、表参道でね、そこのバーのお手伝いとかもやらせてもらって、で、おひょいさん(藤村俊二)のいろんな話聞かせてもらって、それが、意外と僕の中では、すごく今に至るまで、言葉もそうだし、生き方もそうだし、すごい残ってるっていうのがあって、あんな濃い 2日間なかったですね。
 
小田井: だって、俺、ほんまに、その時、やっぱり親に対して親不孝してるっていう気持ちがものすごいあってね、だけど、おひょいさん(藤村俊二)が「今いくつ?」って言われて、「30(歳)まだなってない」って言ったら、「男は、もうとにかく 40(歳)までは好き勝手やって、40(歳)から金貯めろ」って言われたんで、俺、その言葉で、めっちゃ楽になったんです。「あと十何年もある……」って……はははは(笑)。
 
ーー その後は、ファッション雑誌やブランドの発表会などに出るなどモデルとして活動し、2002年には、オーディションを受けた テレビドラマ『仮面ライダー龍騎』(テレビ朝日)のメインキャラクターである 北岡秀一 / 仮面ライダーゾルダ役で俳優デビューを果たした。
 
ーー そして、『仮面ライダー龍騎』の放送終了後、俳優として、テレビドラマや映画、舞台などに出演していたところ、2007年、酒井一圭に誘いわれ純烈のメンバーとなった。

 

 

10 ソロのとしての今後の活動 〜「自分らしいエンターテイメントを作りたい…」〜
 
ーー 2022年12月31日の「NHK 紅白歌合戦」のステージを最後に、小田井涼平は、ソロとなる。「ひとりになる」というのは、どういう心境なのだろうか?
 
小田井: いや、どういう心境というか……、なんか、もともとソロだったから、その状態に戻るという感覚もあるんですけど……。でも、やっぱ、グループ活動を 1回 経験したので、ちょっとまた違った心境で、ある種、グループでいろんなことをやるっていうのは、自分の我を通すこともたまにはありますけど、どちらかというと、グループの中の役割を演じたり、調和だったりとかっていう、最終的に長持ちさせようとすると、譲らなきゃいけないところもたくさんあるというか……、もちろん、自分が前に出なきゃいけないときもあるんですけど、その駆け引きを、ず〜っとやってきた感覚が、やっぱあるんです。
 
小田井: どちらかというと、僕、一歩下がってたことの方が多かった感じがするんですけど、だけど、1人になるっていうのは、そのリミッターが外れてしまうというか、外さなきゃいけないので、だから逆に、15年やってきたことから「もう1回、そっちに戻さなあかんな〜、それはそれで大変やな〜」っていうのが、まさに今の心境です。
 
ーー これまでも、純烈としての活動をしながら、たとえば、『プレバト!!』(TBS/MBS系)や『日立 世界・ふしぎ発見!』(TBS系)などにも、小田井涼平として出演していたが、これからどういう活動をしていきたいのだろう? 
 
小田井: いや〜……、だから、与えられたことは、基本的には、やっていこうとは思っているんですけど……。でも、「こういうことをやりたい」っていうことで言うならば、やっぱり、リポーターとかロケとか、そういう外に出て、いろんな人と触れ合ってっていう、そういうお仕事を中心にやれたらいいな〜っていうのは、本当に希望としてあって……。
 
小田井: 何か、そこは、やっぱり、純烈やってきて一番の収穫で……。それまで、役者やってた僕ってのは、そのファンの人たちとは、そこまで触れ合うことって全くないですけど、やっぱり、純烈やって、そういう機会が増えて、だから、ロケとか、たまたまコロナ禍で、いろいろバラエティー呼んでいただけるようなって、そんでいろいろロケも行かしてもらったんですけど、そしたら「ロケ楽しいな〜」と思い始めたんですよね……、何年か前ぐらいから。
 
小田井: で、なんか、自分らしさも出るし、自分のスタイルを作れるじゃないですか、ロケって。「これ楽しいな〜」と思って。純烈でやってきたことも生きるし、いろんなとこ行けるし、これはこれで楽しいと思うと、なんか、そういうのをすごいやりたいなっていうのは、今ものすごくありますけどね。
 
ーー たとえば、ソロ・コンサートとかも見ることができるのだろうか?
 
小田井: あ〜、まあ……、全然、やるつもりはあるんですけど、せっかく十何年もやってきたことなので……。それに、たとえば、自分にもそんな多くはないけどファンの人がいて、ファンの人が「やって欲しい」って言うんであれば、やってあげる方が絶対いいと思ってるんで。
 
小田井: だけど、今までの純烈みたいな「大きなホールで」とかって、オファーがあればあれですけど、じゃなければ、もう本当に、ライブハウスみたいなちっちゃいところで、聴いてくれる人たちのためだけにやりゃいいかな、みたいな感覚ではあるんですけど。
 
小田井: ただ、なんかね……、どっちかというと、今まで、純烈は、コンサートスタイルで言うと、もちろんセットリストは決まってますけど、何かを「決め打ちでやる」というよりは、途中はフリーでやってきたので、僕は、どっちかっていうと「作り込んだもの」をやりたい人なので、そういうのはやってみたいなとは思いますね。
 
小田井: なんかやっぱ、ちゃんとしっかり台本を作って、ショーアップしたものをやってみたいなとは思う気持ちはあります。やっぱり「純烈を経たからこそ思う」っていうか……、うん、なんかそれが、やっぱり「自分らしさなんやろな」と思うんですよね。本当、なんか……、なんかコンサートというよりは、なんか「自分らしいエンターテイメント」を作りたいんですよね。
 
ーー たとえば、東京、横浜、大阪にある「ビルボードライブ」のようなところで、ショーアップされた、小田井涼平のエンターテインメントを見てみたい。
 
ーー 最後に、小田井涼平に代わって新加入するメンバー、岩永洋昭(いわなが ひろあき)へのアドバイスを聞いてみた。
 
小田井: なんやろな……、たぶん、そのね……、予想なんですけど、来年以降の純烈は、僕がいた頃と変わると思うんですよね。当然、みんなの考え方も今までと変わってくると思うんですね、立ち位置とか、それぞれの役割みたいなものとか。だから、自分がいたときの純烈では、なくなってると思うので……。
 
小田井: で、その辺は、(新メンバーが加入しても)僕が残ってれば感じるんですけど、岩永くんは、入った段階でそれが純烈なので、どういう状況になっても、わからないと思うんですよ。
 
小田井: でも、やっぱ、岩永くんも、後から入るっていうことに対してのの気遣いとか遠慮って、絶対あると思うんです、普通に考えれば。だけど、なんか、岩永くんの個性みたいなものは、もう存分に出してやってほしいなと思うんですよね。誰かが「それ、あかん、駄目」って怒られるまではやっていいと思うんすよ、怒られたらやめりゃいいので。
 
小田井: だから、なんか変に「本当は、もっととんがったツメ出せるけど丸めてる」っていうよりは、彼の持ってる個性は強烈な個性やと思ってるので、僕もいろいろ話を知っているので……(笑)、その強烈な個性は、いかんなく発揮していただければ、また、新しい純烈というものに対しての起爆剤になると思うので……、それが、僕の本当に望みなので……、はい。
 
ーー 小田井涼平のソロも、純烈の今後もますます楽しみだ。

 

 

 

(取材日:2022年10月14日 / 取材・文:西山 寧)

 

 

 

いろいろわかる… 純烈 ロングインタビュー!(2021年)

 

いろいろわかる… 純烈、ロングインタビュー 第2弾!(2022年)

 

 

 

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