いろいろわかる… 福田こうへい ロングインタビュー! 昨年、2020年「レコード大賞」最優秀歌唱賞受賞! シングル『星屑の町 ~デュエットバージョン~』は、約50年前の三橋美智也の歌声とのバーチャル・デュエット! ともに民謡歌手から流行歌歌手になった二人の歌声を名曲で楽しめる企画盤!

インタビューの最後に、読者プレゼントあり!

Fukuda Kohei

福田 こうへい

三橋美智也 / 福田こうへい

Single「星屑の町 〜デュエットバージョン〜」

★ 岩手県出身、紅白4回出場の演歌歌手 福田こうへい!
★ 2012年『南部蝉しぐれ』で演歌歌手としてメジャーデビュー!
★ 昨年、2020年「レコード大賞」最優秀歌唱賞受賞歌手!


★ 三橋美智也のヒット曲3曲をバーチャルデュエットした企画盤!
★『星屑の町』『赤い夕陽の故郷』『おさらば東京』の3曲収録!
★ ともに民謡歌手から流行歌歌手になった二人の歌声を名曲で楽しめる!



リリース 情報


三橋美智也 / 福田こうへい「星屑の町 〜デュエットバージョン〜」
シングル CD
2021年6月2日発売
KICM-31024
¥1,500
KING RECORDS

<収録曲>
1 星屑の町 ~デュエットバージョン~
2 赤い夕陽の故郷 ~デュエットバージョン~
3 おさらば東京 ~デュエットバージョン~
4 星屑の町 (オリジナルカラオケ)
5 赤い夕陽の故郷 (オリジナルカラオケ)
6 おさらば東京 (オリジナルカラオケ)


福田こうへい「男の残雪」
シングル CD
2021年7月14日発売
KICM-31027
¥1,400
KING RECORDS

<収録曲>
1 男の残雪 (作詞:坂口照幸、作曲:四方章人、編曲:南郷達也)
2 女舟 (作詞:麻こよみ、作曲:花笠薫、編曲:南郷達也)
3 男の残雪 (オリジナルカラオケ)
4 男の残雪 (一般用半音下げカラオケ)
5 女舟 (オリジナルカラオケ)
6 女舟 (一般用半音下げカラオケ)


福田こうへい キングレコード


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三橋美智也/福田こうへい「星屑の町 〜デュエットバージョン〜」歌詞を見る!

福田こうへい 歌詞一覧



福田こうへい ロング・インタビュー


 演歌歌手の中には、細川たかしや、藤あや子ら民謡出身者も少なくないが、パイオニアとも言えるその代表格が、1954年にデビューした三橋美智也だ。『リンゴ村から』『哀愁列車』『星屑の町』『古城』『達者でナ』などヒット曲を連発し、1983年には、日本音楽史上初めてレコード売り上げが累計1億枚を超えた昭和の大歌手のひとり。細川たかしは、民謡三橋流の門下生だ。
 
 福田こうへいは、デビューのころから三橋美智也を目標にし、ステージではもとより、2016年には、『憧 〜三橋美智也を唄う〜』という三橋美智也のカバーアルバムもリリースしている。福田こうへいは、2013年(平成25年)に 初出演した『NHK 歌謡コンサート』(現在の『うたコン』)では、共演の北島三郎からは「平成の三橋美智也」と絶賛された。
 
 最新シングルは、その憧れの三橋美智也とのダブルネームによる企画盤。
 
 三橋美智也の歌声と、福田こうへいとのバーチャル(疑似)デュエットで、三橋美智也のヒット曲、『星屑の町』『赤い夕陽の故郷』『おさらば東京 』の 3曲を収録している。ナタリー・コールが、1991年に、亡き父ナット・キング・コールが歌ったスタンダード『アンフォゲッタブル』をバーチャル・デュエットし、全米No.1を獲得するなど大ヒットして話題となった、あの方法だ。
 
 バーチャルとは言え、憧れであり目標とする歌手とのデュエットは、福田こうへいにとって、嬉しいと同時に、大きなプレッシャーだったと思う。しかも、相手は昭和の大歌手で、年配のリスナーにとっては、三橋美智也の歌唱のイメージも強いだろう。実際、福田こうへいは、インタビューの中で「聴かれるのが怖い」とも話している。
 
 しかし、出来上がりは見事だ。
 
 いずれの曲も、毎コーラスごとに、ソロで歌う部分は均等に割り振られており、三橋美智也から福田こうへいに歌声が変わったところでも、何の違和感もないし、楽曲の良さを素直に楽しめる。ユニゾンで、一緒に歌っている箇所は、呼吸の感じから、コブシの回し方までキッチリ揃っていて自然だ。
 
 違和感がないどころか、決してモノマネなどではなく、ちゃんと福田こうへいの歌声の魅力も感じさせる。簡単に歌っているように聴こえるが、これは、すごいことだ。なぜなら、簡単に歌っているように聴かせる能力を持っているということだからだ。
 
 三橋美智也と同じく、福田こうへいも民謡出身ではあるが、民謡を歌いはじめたのは、23歳からと遅い。多くの歌手が、子供のころから民謡や演歌を習ったり、若い頃からカラオケ大会などに出場していたりするが、福田こうへいは、そんな経験もない。それなのに、民謡日本一にもなっている。

 これまで、民謡を含め、歌を習った経験は一度もないどころか、そもそも、歌手になろうとは全く思ってもいなかった。父親が、地元の岩手では有名な民謡歌手で、母親も民舞の師範だったにもかかわらずである。父親とは、決して仲が良かったわけではなかったから、反発心もあったかもしれない。
 
 それなのに、福田こうへいの歌声は超一流で、圧倒的だ。
 
 硬質で、輪郭がクッキリしていて、とにかく響きがいい。小柄ながら力強い歌声と、抜群の安定感、魅力的な高音域もチカラではなく豊かな響きで聴かせるから心地よい。こういう歌声の人は、なかなか他にはいない。心を揺さぶる歌声とは、まさにこういう歌声のことだと思う。昨年、2020年の「第62回 輝く!日本レコード大賞」で最優秀歌唱賞を受賞したことも当然だ。
 
 もともとの声の良さに加えて、福田こうへいは、音楽の耳が良いのだと思う。一般的に「音感が良い」と言うのに似ていて、音楽の耳が良い人は、同じ曲を聴いても、無意識にごく細かいところまで聴き分けていたりする。簡単に言えば、同じ曲を聴いても、違ったように聴こえている……、普通の人には注意しないと聴こえないようなところまで聴こえていたりするということだ。
 
 そういう細かい部分やニュアンスに自然と気付くことで、自分が歌う歌も大きく変わる。アマチュアでも、歌が上手くなるためのポイントは、プロが歌っているものと、どこがどう違うのかに気付くことだ。気付けば、練習しなくても歌は変わる。
 
 そして、福田こうへいは、たくさん気が付く分、自分の歌でもそこが気になる。あまり多くは語らないが、自分なりに、相当な練習をしてきていると思う。
 
 子供の頃から自然と家の中にあって、知らず知らずのうちに耳にしていた民謡や歌謡曲が、抜群の耳を作ったのではにかと思う。もしかしたら、岩手の農家の生まれという環境も良かったのかもしれない。常に何かのノイズが聞こえている都会とは違い、田舎の夜はシーンとしている。
 
 よく、コンサートや番組などでも、「ウシはモ〜なんて鳴かない」と言って、「アンマウェ〜」というような鳴きマネをして笑わせるが、そんなことに気がつくのも、耳が良いことの証明だ。ちなみに、ホルスタインと和牛を鳴きわけることができる。
 
 一見、ぼくとつとした雰囲気を感じるが、岩手訛りで話すしゃべりも面白く、よくトボケてみせる。憎めないキャラクターで、普段からも人を喜ばせたいという思いが強く、「訛ってねぇってば〜」と岩手訛りで言って笑わせたりもする。そんなところからも、根っからのエンターテイナーだと感じる。もちろん、歌でお客さんを楽しませたいということは、言わずもがな。
 
 福田こうへいは、そういう超一流の歌手としての資質を持っていた上に、独学という、実は最も難しい方法で練習を重ねた結果、「平成の三橋美智也」と言われるような歌が歌えているのだと思う。そして、仲が悪かった民謡歌手をやっていた父親からの影響も、後から考えると決して小さくはなかった。
 
 そのうち、何十年かしたら、「○○時代の福田こうへい」と言われる歌手が、きっとが出てくる……。
 
 7月14日には、早くもオリジナルの新曲『男の残雪』(作詞:坂口照幸、作曲:四方章人、編曲:南郷達也)が発売される。


<もくじ>

1 三橋美智也との時を超えた共演 〜「すごい難しかったですね…」〜 
2 三橋美智也を歌い継ぐこと 〜「色んな歌を歌い込まないとダメだな〜って…」〜 
3 日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞 〜「いただいた後の方が怖いですね…」〜 
4 民謡歌手だった父親とは仲が悪かった 〜「最初に買ったのは、X JAPANの『紅』…」〜 
5 23歳で始めた民謡 〜「そっから先は、あと自分で覚えろ…」〜 
6 メジャーデビュー前からあった『南部蝉しぐれ』 〜「ついでに歌ってたんですよね…」〜
7 とにかくお客さんを楽しませたい 〜「ブランドにちょっとずつなっていきたい…」〜


1 三橋美智也との時を超えた共演 〜「すごい難しかったですね…」〜 

 1991年に発売されたナタリー・コールの『アンフォゲッタブル』は、亡き父ナット・キング・コールと最新技術でバーチャル(疑似)デュエットに仕立てた作品で、その出来上がりに世界が驚いた。全世界で1,400万枚のセールスを記録、全米 No.1を獲得し、グラミー賞でも「ソング・オヴ・ザ・イヤー」など7部門を受賞している。
 それほどヒットし、その後、さらなる技術の進歩があったにもかかわらず、同じような企画はあまり聞かない。もちろん、使用許諾が取れずに実現できない場合もあるかもしれない。しかし、おそらく、それは、歌う歌手にとって、完成された元のボーカルと共演することのプレッシャーがあるから、二の足を踏んでしまうからではないだろうか。企画としては面白くても、実際にやる方は大変だ。
 そんな中、福田こうへいがやってくれた。
 三橋美智也のヒット曲、『星屑の町』(作詩:東條寿三郎、作曲:安部芳明、編曲:川上英一)『赤い夕陽の故郷』(作詩:横井弘、作曲:中野忠晴、編曲:小町昭)『おさらば東京』(作詩:横井弘、作曲:中野忠晴、編曲:川上英一)の 3曲を、三橋美智也のボーカルとバーチャルデュエットの形にしたシングルをリリースした。

 「実際は、あの〜、キングレコードのディレクターさんが、"三橋さんの声とミックスさせてやろっか、どぉ?" って言うから、"いいんじゃないですかね〜" とは言ったんですけど……、ただ、自分流で歌った方がいいのか、それとも、三橋さん風にやったらいいのかって、すごい難しかったですね。」

 バーチャルデュエットにするためには、もとのマスターテープが、マルチ・トラックで録音されている必要がある。つまり、ボーカルと演奏(オケ)が別々に独立して録音されている形のテープで、ボーカルだけを抜き出せないと出来ない。
 今回、収録されている3曲、三橋美智也の『星屑の町』は 1962(昭和37)年、『赤い夕陽の故郷』は 1958(昭和33)年、『おさらば東京』は 1957(昭和32)年の発売で、この当時、これらはマルチ・トラックではなく、ボーカルもオケも一緒に録音されているため、バーチャルデュエットにはできない。
 そこで、その後、三橋美智也が再録音して発売された音源が 今回 使われていて、『星屑の町』と『おさらば東京』は 1969(昭和44)年に発売されたもの、『赤い夕陽の故郷』は、その翌年 1970(昭和45)年に発売された音源が使われている。三橋美智也が、38歳〜39歳の時の録音だ。
 当然、マスターテープが良い状態で残っている楽曲の中からの選曲になるが、この 3曲以外にも、福田こいへい自身が希望した曲もあった。

 「ま、最終的には、ディレクターが選んだんですけど……。"俺、コレがいいな〜" って言ったのが、たとえば『達者でナ』だったら、"♪おーら おーら 達者でナ〜" と "♪あぁ〜 あ〜あ〜" て、もう三橋先生が歌を重ねて歌ってしまってるんですよ。コレをどっちが抜くっていう音源が無いって言われて……(笑)。それで、結局、"あ、じゃぁダメが〜" ってんで。」

 「あとはね、『母恋吹雪』が、ちょうど自分の故郷の岩手って言うのが出てくるし、あれがすんごい好きだっていう人もいたんでね……、それを自分の声と三橋さんと混ぜて聴かせたいな〜と思ったんだけど、それも、結局、やっぱりダメになって……。ダメって言うか、音源自体はあるんでしょうけど、今回は、まず、この3曲にまずしておこうっていうことになって……。もしかすると、コレを出してみての評判を見て、"後からまたもう1つの引き出し" って言う計算もしてるかもしれないですけど……(笑)。」

 いずれもメジャー調のミディアムテンポで、統一感のあるバランスのいい 3曲になっている。ユニゾンで一緒に歌っている部分もあるが、それぞれ、ソロで歌っている部分は、ワンコーラス目とツーコーラス目では、歌うところをそっくり逆にしてあり、どっちのソロも聴けるように工夫されている。

 「ユニゾンはもちろんですけど、ソロのパートも、三橋先生の歌を聴きながらやりました。本人どういう風に歌ってるって、こう聴きながら……、はい。で、やっぱりその……、三橋先生が音符に無い音も付けながらやってますんで、ソコもちょっと真似しながらやってましたね。でも、寄せると言うか、似せるコトも結構難しいな〜って思ったんすよね。」

 福田こうへいは、2016年12月に、三橋美智也の代表曲を13曲収録したカバーアルバム「憧 〜三橋美智也を唄う〜」をリリースしており、その中で今回の3曲も歌っているが、やはり、本人と一緒に歌うのは難しかったようだ。それでも、ユニゾンで一緒に歌っているところなど、呼吸の感じから、難しいこぶしの回し方も全く同じに揃っていて自然に聴こえる。

 「はい……、似せました。いや〜、もぅ頑張って覚えましたね(笑)、それは大変でした……。で、いかに自分が、その〜、こぶしを違う回し方で勝手にやってたんだな〜っていうのが、よく分かるんですよ。ひとりで歌ってる分にはいんですけど、やっぱり……。ま、もう亡くなってますけども、"もし一緒にやってたらば" って思うと……。やっぱり、三橋先生の名曲ですし、コレを崩してはならないっていうので、極力、似せましたね……。」

 相当、何度も聴いて、相当、練習しないと、これほど同じように合わせることは難しい。その準備もさることながら、実際の歌入れ、レコーディングも大変だったようだ。

 「録音は、ちょっと時間掛かりましたね〜。普段は早いんですけど……。あの〜、カバー曲だから、ある程度の音符があって、それに乗っ取ってやれば、あとは、こうへい節でいいんだからって言うんだけど……、意外とね、難しいんですよ。って言うのが、ゆっくりな歌なんで。ゆっくりの歌ほど難しいんですよ。はい。」

 本人はそう言うが、三橋美智也から福田こうへいに歌声が変わったところでも、何の違和感もなく、楽曲の良さを素直に楽しめる。現在、福田こうへいは44歳、三橋美智也の歌声が38歳〜39歳の時のもので、もしかしたら、年齢が近いことも良かったのかもしれない。

 「コレはもう、似せて三橋節にしないとダメだなって思ったのが、あの……、やっぱり CD として残るんで、"本人の歌唱の仕方を崩しちゃならない" って思いましたもんね。はい。だから、あまり自分色ではなくて、三橋色でやりたいなって言う風に思いましたね、コレは。」

 それでも、決してモノマネなどではなく、違和感もないどころか、ちゃんと福田こうへいの歌声の魅力も感じる。簡単に歌っているように聴こえるが、これは、すごいことだ。簡単に歌っているように聴かせる能力を持っているということだ。それに、三橋美智也の歌のすごさも、あらためて感じることができる。
 なにより、三橋美智也と、福田こうへいの両方の歌が一度に楽しめるという、これまでに聴いたことのない新鮮な感覚が楽しい 3曲だ。

 「あの〜、今も、いろんな先輩方のカバーをちょっと聴いてたんですよ、海にちなんだ歌のヤツを。当然、その、北島三郎さんから鳥羽さんから、いろんな人の海の歌の声を聴いた時に、あ〜、たしかに、自分たちの両親、70代、あるいは、おじいちゃん、おばあちゃん達が三橋先生の歌を聴ぐのと、俺が今聴いた先輩方の 20〜30年前の歌い方を聴ぐと、その何て言うんでしょう……、節回しとか、真っすぐ歌って落とす所に味のある歌い方っていうのが、耳触りがいいっていうか、やっぱりすごいんですよ。うん。歌詞が入ってくる……、なんて歌ってるかが分かる……、"あっ、コレなんだな〜人気の秘訣は" って思って……。よく自分も歌ってる時に、"こうへいさんって、歌詞がちゃんと全部ハッキリ聞こえる" って言われるんで、"ちゃんとやってきて良かったな〜" っていう感覚が、今回、三橋先生とコラボしてやったのを聴いてみて思いましたね。」

2 三橋美智也を歌い継ぐこと 〜「色んな歌を歌い込まないとダメだな〜って…」〜 

 福田こうへいは、デビューのころから、同じく民謡出身で流行歌歌手になった三橋美智也を目標にしている。三橋美智也との出会いを聞いてみた。

 「三橋さんの歌を最初に聴いたのは、やっぱり『達者でナ』ですかね。これはね……、24歳ぐらいかな。ただ、家にはね、おじいちゃん、おばあちゃんが聴いてたであろう LP がごそっとあるわけですよ。それはね、"スカーッ、スカーッ、スカーッ" って針の音が聞こえるんですけど、なんて言うんでしょうね……、やっぱり昔ながらの味があっていいんですよね……。ま、CD が出てるんで、『三橋美智也 全集』みたいな CD を買って、一番初めに『達者でナ』を覚えて、それから、だんだん色んな歌を覚えるようになりましたね。」

 23歳の頃から民謡を歌いはじめ、独学ながら、20代の後半にかけては、数々の民謡の全国大会で優勝し、その後、地元の岩手で歌う機会もできてきた。そんな時にも、民謡とともに、三橋美智也を歌った。

 「あっちの、岩手の民謡歌手の人達の仕事って、2時間の仕事のうち、1時間半は民謡と手踊りと色んなのをやるんですけど、最後の30分は演歌で締めるんですよ。ほん時に色んな歌……、まあ氷川さんの歌から始まり、色んな歌手の方の歌を歌うんですけど、なにか、こう懐かしさみたいなのもないと拍手が来ないんですよ。"だったら、三橋美智也 歌っとけ" っておじいちゃんから言われて、で『達者でナ』を歌ったんですよ。そしたら、すんごい喜ぶんですよね。三橋先生は、すごいうけるんですよ、まず歌ってると。」

 「で、な〜んでこんなに喜ぶんだろうな〜って……、"高い声を出すからなのかな〜?" って思ったら、違うんですよね。あの、馬飼ってた人なんかは、懐かしいっていうのと、やっぱりこの『達者でナ』を、三橋先生のやつを生で聴いた人達もいるんじゃないですかね。それで、こうね、なつかしく思い出したりしてね……。やっぱり、民謡王国なんで東北は。で、その三橋美智也って言ったら、"民謡も演歌も" って、根強い存在でしたもんね。」

 三橋美智也の歌は、その当時から20年くらい歌い続けていることになる。今回、バーチャルデュエットのシングルの出来上がりを聴いた時、どう感じたのだろう。

 「いや〜っ、正直、怖いです。こんなに難しいとは……、自分ひとりだったら、まだ自分色になるんですけど、交互に歌っているんで、何とも言われないっていうか……、怖いですね。聴かれるのが怖いですね。三橋先生の歌、歌い方を知ってる人達が、まだいらっしゃる時代ですから……。いや、比べられると怖いですね。」

 2012年に『南部蝉しぐれ』でキングレコードからメジャーデビューして、2013年(平成25年)に初出演した『NHK 歌謡コンサート』(現在の『うたコン』)では、共演した北島三郎から「平成の三橋美智也」と絶賛され、太鼓判を押されている。

 「そう言われると……、なんでしょうね、そういう風に思ってくれてるっていうか、感じてるっていうのは、まずすごい嬉しいな〜っていうのと、やっぱり、三橋先生の歌を歌い継いでいかなきゃないですし。その……、自分とするど、"民謡歌手" 兼 "演歌歌手" 、"民謡演歌歌手" でいたいって、まずこう思うんですよね。あと、これから、今 40代ですけど、50、60 になってから味が出せるか……、コレがちょっと、こう不安と言いますか、色んな歌を歌い込まないとダメだな〜って思いましたね。」

 今でも、これほどの歌唱力なのに、不安だと言う。

 「いや、いや、いや、いや。あの……、俺も誰かの歌を、一般の人が歌ってるのを聴いた時に、"あれ? この人、なんでこんなに味あるんだろう?" っていうのを思う時あるんですよね、一般の人でも。あれって悔しいなって思う時あるんですよ。」

 たしかに、歌は技術だけではない。アマチュアの中にも、たとえば音程が甘くても伝わる歌を歌う人がいたりするし、ヘタなのに、妙に感動させられる歌を歌う人もいる。

 「はい。その……、落とし方の優しさとか、強さとかが、何気な〜くやってる人が、たま〜にポロっといるんですよ。その、そこに反応しちゃう。だから、50、60 になってから、まず、そういう歌手になっていたいな〜って思いますもんね。民謡が歌えるがらこそ。コレは、もう歌いこなすしかないですね、色んな歌を。」

 「まだね、"声ばっかりじゃね〜よ"、"節回しばっかりじゃないよ〜"、"その歌の味がないとダメだよ〜" っていう風に言ってもらえる時もあるんですよ。そういうのがね、おじいちゃんいた時って、すごい厳しかったんで、"あ〜もう、なんかアドバイスする人がまた一人、また一人っていなくなったな〜" っていう中で、自分で聴いて気付かなきゃないですから。そうすると、誰がの歌を聴ぎながら、自分で照らし合わせないと、気付かないんですよね。ま、それを、今 40代で、40代じゃなきゃ出来ない歌い方と、あとは 50代、60代だから出せる味……、そういうのを、やっぱり今から引き出しをいっぱい作って、溜めとかなきゃいけないな〜って思います。」

3 日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞 〜「いただいた後の方が怖いですね…」〜 

 福田こうへいは、2012年10月24日に『南部蝉しぐれ』でキングレコードから歌手としてメジャーデビューした。翌 2013年(平成25年)にかけて大ヒットしたことで、2013年には、「第46回 日本有線大賞」新人賞受賞、「第55回 輝く ! 日本レコード大賞」新人賞受賞、そして、「第64回 NHK 紅白歌合戦」にも初出場した。これまでに、オリジナル・シングル10作をリリースし、NHK 紅白歌合戦には、計4回出場、今年、2021年には、デビューして10年目に入った。

 「あっという間の10年で、まだね、2年くらいしか経ってないような感じですかね……。はい。あっという間でしたね〜、本当に、色んな番組に出させてもらって、色んな現場にも行きましたけど……。"あっ 10年やったんだな" って思うのが、その、毎年、毎回のセットリストをこうやって見た時に、"あ〜 たしかに結構やったな〜" って……、内容濃く。で、今度は、どういうのをお客さんが求めてんのかな〜っていうのを考えたり……。」

 歌の印象は変わらないが、歌声の響きが、より豊かに、より柔らかくなったようにも感じる。

 「あ〜……、う〜ん……、ま、やっぱ 10年経った歌声の太さかなって思ったりしますね……。」

 多くの歌手が、デビュー前や、デビュー後も、歌のレッスンを受けたりしているが、福田こうへいの場合は違う。

 「ボイストレーニングは、一切、全く無しですね。23歳で民謡始めた時から、もう、ずっとそうです。音符が、まず読めませんので、"次の歌、コレ覚えてください" って渡されて、カバーでもなんでも、とにかく聴いて覚えることしか出来ないんですよね。でも、覚えるのは……早いですね。」

 実は、福田こうへいの父は、地元で有名な民謡歌手で、母親も民舞師範だったが、両親に民謡を習ったということもない。

 「いやー、オヤジとは仲悪かったですし、おふくろも全然……、師範ですけど全く教えないです。教える身分にもないですし、"教えて" ってもこっちから言わないですしね。」

 音楽の耳が抜群に良いのだと思う。音楽の耳が良い人は、自然と歌もうまい。音楽の耳が良い人は、同じ曲を聴いても、無意識にごく細かいところまで聴き分けていたりする。そういう細かい部分やニュアンスに自然と気付くことで、自分が歌う歌も大きく変わる。福田こうへいは、人よりもたくさん気が付く分、自分の歌でもそこが気になる。そういうやり方で、あまり多くは語らないが、自分なりに、相当な練習をしてきていると思う。
 そして、昨年、2020年には、9作目のシングル『筑波の寛太郎』(作詞:松岡弘一、作曲:水森英夫、編曲:伊戸のりお)で、「第62回 輝く!日本レコード大賞」で最優秀歌唱賞を受賞した。「レコ大」で「最優秀歌唱賞」ということは、「その年の一番うまい歌手」と言われているようなものだ。

 「う〜ん……なんでしょうね……。あの……、いただいたのは嬉しいんですけど、いただいた後の方が怖いですね、やっぱりね。"これで、あの賞を獲った人ですか?" って言われないようにしなきゃないですから。う〜ん、なんか、貰ったっていう感じは無いといいますか……あははは(笑)。」

 受賞作の『筑波の寛太郎』は、それまでの福田こうへいの歌にはなかった「股旅もの」だ。

 「そうです、自分のオリジナルでは初めてです、はい。股旅は、本当に好きなんです。舌巻くような歌い方みたいなのが、好きなんですけどね。作曲の水森先生が、『潮来笠』以来、久しくその股旅で当たるっていうのはないから……、まぁ、あの氷川さんの『大井追っかけ音次郎』もあるでしょうけど、"なかなか今は股旅を出すっていうことが無い時代だから、もしかしたら、何かあるかもしれないよ" って言ってて、当たるかもしれないよみたいなをコトを言ってたんですよね〜。」

 たしかに、最近、「股旅もの」は珍しい。『筑波の寛太郎』は、「♪ツンツン 筑波の寛太郎〜」が印象的に耳に残る楽曲だが、やはり、「最優秀歌唱賞」を受賞するだけあって、歌のうまさを感じる。「♪背を向ける〜」のところなど、かなり高い音域にもかかわらず、パワフルで、鋭く、見事だ。

 「はい、あそこは……高いです。高く設定しちゃいましたね(笑)。」

 そして、今年、2021年1月1日に発売となった最新のオリジナル曲『かんべんナ』(作詞:万城たかし、作曲:岡千秋、編曲:伊戸のりお)は、デビュー曲で大ヒットした『南部蝉しぐれ』や、続く『峠越え』などを彷彿とさせるようなメロディラインだ。作曲は、『浪花恋しぐれ』『長良川艶歌』などで知られる 岡 千秋 によるものだが、どこか、『南部蝉しぐれ』や『峠越え』を作った 四方 章人(よも あきと)っぽく聴こえる10年目の原点回帰とも言えるような楽曲だ。一度聴けば、サビの「♪かんべんナ かんべんナ ああ かんべんナ〜」を覚えてしまう。

 「これ、評判いいですね。この『かんべんナ』の場合は、あの〜、両親亡くした人とか、親不孝して生ぎ別れたとか、"もうちょっと孝行しとけばいがった〜" とか、その感じの手紙が多いですね。あの……、張る歌でもないので……、なんか、こう、ゆったりした歌が久々に来たかな〜って思います。」

 サビも印象的だが、Aメロの語るように歌うところもいい。とくに、「♪寒さしのぎに 晩酌だろか〜」のところなど、切ないメロディに乗せた言葉が、福田こうへいの歌声でグッとくる。

 「そうですね……、田舎感があって。で、なんでしょうね……、歌詞にも、津軽って雪国が入ってくるんで、そうすると、何か不思議に、その、味じゃないですけど、出しやすい所が歌に自然と出てくるんですよ。田舎の方じゃないと、こういう風な我慢の辛さって分かんないよな〜みたいな……。ホントね、囲炉裏もあったし、北国だし、酒飲むおじいちゃん、おばあちゃんだったんでね……、囲炉裏の生活一緒にしましたんで、なんか、やっぱり出しやすいですよね、そういう生活した歌であれば。」

4 民謡歌手だった父親とは仲が悪かった 〜「最初に買ったのは、X JAPANの『紅』…」〜 

 福田こうへいは、岩手県 雫石町の農家に生まれた。父親は、民謡『南部馬方節』や『南部牛追い唄』などの大会で日本一になり、地元の岩手を中心に、民謡歌手「福田 岩月(ふくだ がんげつ)」としても活動していた。地元では有名だったが、2005年、福田こうへいが29歳の時に、52歳の若さで亡くなった。
 そして、母親も民舞師範だった。
 福田こうへいも、のちに、民謡の『南部馬方節』や『南部牛追い唄』『外山節』など数多くの大会で民謡日本一になっているが、子供の頃は、民謡が嫌いだった。だからもちろん、子供の頃から民謡をやっていたわけではない。

 「うん、オヤジが民謡歌手で、小学校の時はバカにされることが多かったったんで。民謡を人前で歌うっていうっていうこともなかったですよね。でも……、門前の小僧で、耳にして育ってましたね。」

 だから、子供の頃は、普通に流行りの音楽を聴いていた。

 「あの頃はですね……、普通に、鈴木雅之さんの歌とか、久保田利伸さんとか、中西圭三さんとか……。最初に買ったのは、X JAPANの『紅』。次に買ったのが、あれなんだっけ……、ブルーハーツの『情熱の薔薇』、ちょうどテレビの番組もやってたんで。それを買って、だんだんだんだんこう多くなってきましたね。あとは、その〜、歌のジャンルは別としても、心地のいい歌、音楽は、とにかく買って色んなの聴いてました。」

 歌うことは好きだった。カラオケにもよく行ったという。

 「うん、やっぱり高校生になってから、カラオケには友達なんかとよく一緒に行きましたね。あの時は、何歌ったかな〜……、WANDS とか T-BOLAN とか シャ乱Q とかですかね。はい。楽しかったし……。でも、一緒にいる友達が、カラオケにだんだん誘わなくなったっていうか……、"俺が歌った後に歌いたくない" って言ってね。"別にいいじゃんカラオケなんだから" って言うんだけど、そん中に、女の子がひとりとかいると、も〜歌わないんですよ(笑)。」

 福田こうへいというと、民謡や王道演歌、昭和歌謡のイメージしかない人も少なくないと思うが、実はポップスを歌わせてもうまい。2019年7月に放送された NHK BSプレミアムの音楽番組『新・BS日本のうた』では、リズムもメロディも難しい J-POP の曲、米津玄師『Lemon』を見事に歌ってみせた。ポップスでもうまいのは、もともと、学生時代は、普通にポップスやロックを歌っていたからかもしれない。
 そして、そんな頃の父親との関係はと言えば、民謡を習うどころか、喧嘩ばかりしていたが、17歳の時に、武道館で行われた民謡の全国大会で、父親が歌う姿を見る機会があった。

 「この大会は、今は番組なくなっちゃいましたけど、日テレ系でやってた全国大会で『日本民謡大賞』っていう大会あって、その大会にオヤジが岩手県代表で選ばれて出たんですよ。前の日、土曜日にテレビ放送の無い予選会をやって、予選に東日本ブロック5人、西日本ブロック5人、この中から5人に選ばれて、初めてテレビ放送になる決勝大会に出られるわけですよ。これに、オヤジがまず選ばれて行った時に、17歳で日本武道館に初めて来て、応援に来たわけですよね。」

 民謡をやっていたわけでもなく、しかも、父とは仲も悪かったのに、どうして応援に行ったのだろう?

 「うん……、ま、日本武道館を見てみたいっていうのと(笑)、親戚とかオヤジの友人がワゴン車で行くから、"ひとつ助手席も空いてるし行ぐか?" みたいな話しになったわけですよ。じゃあ、ちょっと、遊びに行く感覚で……って。別にオヤジの民謡はどうでもよかったんだけど(笑)。で、行くからには、ビデオ係やってけろって言われて、それで行ったんですよ。」

 「でも、予選で『南部牛追い唄』を一番バッターで歌って、負けちゃったんですよね、5番目に歌った人に。この人に勝ってれば、もしかしたらオヤジも日本一になれたんじゃないが〜って感じだったんだけども。」

 予選で負けてはしまったが、この時、福田こうへいには、感じるところがあった。

 「うん、それまでも、オヤジの歌をそばで聴いてたことはあったんだけど、まあ、ステージの袖だったりで……、でも、武道館の3階からビデオ撮りながら聴いたオヤジの歌ってのがね、これが初めて感動した。なんがこう……、嫌いな憎んでるオヤジなんだけど、その歌を歌ってる時のオヤジは、やっぱり誇らしいなぁ〜って、初めて思ったんですね。」

 「で、その時に、三橋美智也さんに会ったんですよ、初めて。審査員でいたのが三橋先生で。最初で最後でしたね、お会いできたのが。"いや〜、あの三橋美智也さんって、こんな小柄なんだ〜" って思いましたね。ま、結局、もう痩せてきちゃったころで、その当時は歌も唄ってないし。」

 今につながる民謡と三橋美智也の両方が、心のどこかに刻まれた瞬間だったのかもしれない。

5 23歳で始めた民謡 〜「そっから先は、あと自分で覚えろ…」〜 

 高校卒業後は、ゴルフ場で働いた。6年勤めた後、23歳で民謡をはじめたと同時に、盛岡市内にある呉服店に転職した。この呉服店には、メジャーデビュー曲『南部蝉しぐれ』が発売となる前の月、2012年の9月まで 12年間務めた。営業マンとしても優秀だったらしい。

 「"こうへいちゃんのお父さん、お母さんは、着物を着る仕事でしょ。そのお友達をツテに営業して回ったらいいんじゃないの?" って言われて、そこからやってみようと思って着物の仕事をしました。」

 民謡をはじめたきっかけは、23歳の時、母の勧めで、父親が役員の一人だった民謡大会に出場することになったことだった。

 「あのね、その大会の 1週間か 2週間前くらいに、オヤジと大げんかしたんですよ。なにでケンカしたかな〜…… なにかですごい大げんかしたんですよ。オヤジが "外出ろ〜!" ってはじまって、外に出てまでの取っ組み合いのケンカして、Tシャツ が破れるくらいのケンカで、それから 1週間くらいオヤジと口きがなかったんですよ。俺が来ればオヤジがいなくなる、俺がいるところにオヤジが来れば、俺がいなくなる。その様子をお袋が見ながら、"おめえたち、ほんとにケンカばっかりしてな、片方いれば片方いねぐなる……、ツラ見て一緒にまんま食ったこともねぇしな" って話から、"こうへい、オヤジのことビックリさせてみねえが?" って言ってきたんです。」

 民謡をちゃんとやったことはなかったが、それでも、福田こうへいが、それなりに歌えることを母親は知っていた。

 「俺、たま〜に部屋で、いたずらで民謡を歌ってたのをお袋は知ってたみたいで、民謡を歌えなくないっていうのは、わかってたんですよ。俺が、家にまだ誰も帰ってきてないと思って、オヤジやお袋がよく聴いて練習している音源とか、そういうなのを聴いて、同じキーが出るかどうかみたいな、いたずらみたいなことをしてたんですよ。だから、"なんだ、こうへい民謡歌えるんだ" っていうのをお袋が知ってたみたいで、それで、"大会に出て、オヤジがビックリするようなところを見せてみろ〜" みたいな感じで。」

 そんなきっかけで、岩手県民謡の『外山節(そとやまぶし)』を歌う地元の民謡大会に出場した。大会に出ることはもちろん、民謡を人前で歌うことも初めてだったから、当然、優勝したりはしない。しかし、初出場にも関わらず、結果は 10位だった。

 「はい、初めて人前に出て歌って10位だったんですよ。その時に、火がつけられたのが、ステージの袖で、他の出場者が、"あの福田廣平(本名)って、役員になってる民謡歌手の息子らしいな。多分、それで入れてもらったんじゃないか" みたいな話が聞こえてきたんですよ。それで、俺はオヤジをびっくりさせたいだけなのに、"こういうこと言われるんだ" って思って、"じゃあ、絶対、この大会で優勝するまで出てやる" って、そこからスタートしたんですよ。」

 そこから独学で民謡の練習を始め、2年後の2001年には、この同じ大会で見事に優勝を果たす。

 「次の年は 5位になり、3回目で優勝しました。」

 しかし、今度は、「地方の大会で優勝しただけだ」という父の言葉で、再び火をつけられた。そこで、独学ながら猛練習を重ねた。

 「うん、いろんな教室に行って伴奏を付けて歌わせてもらったりはしましたけど、もうほとんど、車の中でばっかり練習でしたね。」

 そして、2002年には、その『外山節』の全国大会で優勝、『南部馬方節』の全国大会でも優勝するなど、数多くの全国大会で優勝した。2005年に父親が亡くなった後、2006年には『南部牛追い唄』の全国大会で優勝、さらに、2012年には、父の悲願だった「日本民謡フェスティバル」で グランプリを獲得した。
 こういう民謡の大会に出場する人の多くは、子供のころから習っている。23歳で民謡を始めてわずか数年で、これほどの結果を残すということは、民謡界では考えられないようなことだ。もちろん、両親譲りのノドという才能もあっただろうが、相当な練習をしたに違いない。
 そして、その原動力となったのは、父親を見返したいという思いとともに、そんな父親に「認められたい」という気持ちもあったのではなかと思う。おそらく、父親も内心は、その後の活躍を嬉しく思っていたのではないだろうか。民謡を始めてから、父親と仲がよくなったわけではなかったが、それでも、たまには、アドバイスをくれたりもした。

 「生前、オヤジは、"教えられるばっかりじゃなくて、自分で覚えろ" って言ってたんです。たとえば『北の漁場』なら、北島三郎さんご本人が歌ってるほかに、他の人達が歌ってるのも聴いて覚えろっていうわけですよ。"教えられるのがこのレベルだとすれば、ソコまでしかもう成長しないから、そっから先は、あと自分で覚えろ" って。どっかから盗んでこいって……。で、それ気付ぐとね、やっぱり早いんですよね。人の歌い方、声の出し方の盗み方っていうのが、だんだん上手になってくる。」

 父親は、民謡のCDも出しているが、1992年に、自主制作盤で、オリジナルの歌謡曲のシングル CD『男道 / 夫婦かたぎ』もリリースしている。

 「そうなんですよ。実は、初め、オヤジの他にも、もうひとり誰かが歌ってるらしいんですよ。で、その方がもう亡ぐなっちゃったんで、それでオヤジが歌って、初めは『夫婦かたぎ』が A面で、『男道』が B面だったのを、オヤジが今度逆にして出した。」

 そして、福田こうへいが歌手デビューした後、この 2曲もカバーして歌っている。『男道』は、2016年に発売された 3作目のシングル『北の出世船』のカップリングとして、そして、『夫婦かたぎ』は、2018年に発売された 6作目のシングル『天竜流し』のカップリングとして収録されている。

 「オヤジのは、それこそ、あの〜 P盤(プライベート盤、自主制作盤のこと)ですから、地元でしか出てなかった曲なんですよ、この2曲は。しかも、8センチの時の CDですから。ま、それを、俺が世に出たからには、やっぱりオヤジの歌も知ってもらいたいな〜っていうのから、"A面では難しいな〜" っていう話しだったから、"じゃあカップリングでもいいんで入れてください" つって、『男道』も『夫婦かたぎ』も出させてもらった形ですね。」

 『男道』は、父親、福田岩月のバージョンよりもキーが高くなっている。

 「うん、あの……、実際は、オヤジもキ-を高くして歌いたかったはずなんですよ。俺の出してるキーと同じぐらいオヤジも本当は出せるんですよ。だけども、それをあえて、1つ半か 2つぐらい下げてオヤジは歌ってるんですよね。で、なんでかな〜って、今、考えてみると、高く歌ってしまうと、歌詞の内容とか説得力が無くなるために下げたらしいんですよね。おふくろ曰く、"ああいうのは、もうドシッと男らしくしなきゃない歌だ" っていうの。オヤジも、多分、出した時は 30代なんですけど、その30代の時には、声を高くじゃなくて、あえて声を低く出して歌ってましたから、ちょっとまたオヤジに騙されたな〜って思いますね(笑)。ホント、言葉を少なく教えるオヤジだったんでね……、変化球ばっかりのオヤジだったんで。」

 父親が亡くなる前の年の2004年に、そんな父親と、一度だけステージで共演したことがある。

 「そうなんです。オヤジが司会やってたカラオケの大会。ホントはね、その大会に俺も出るからエントリーしてちょうだいってオヤジに頼んだのに、オヤジは出てほしくないって思ったのか、エントリーしなかったんですよ。俺はエントリーされてるものと思って一緒に行ったら、"いや、おめぇなんか出さね〜よ、エントリーしてねぇよ" って、現場に行ってから知ったんです。」

 「なぁ〜んだ、おもしろくねぇ〜な〜って思ってたら、そしたら、スタッフの人から、"廣平さん来てるし、共演してもらえませんかね?" って言われて、初めて、そこで、喋るばっかりの共演をやったんですよ……。あ〜歌も歌ったかな? 歌いましたね……たしか、一緒にではないですけど。鳥羽一郎さんの『山陽道』でエントリーしてくれって頼んでて、"実は私もエントリーして出るつもりだったんですけど" って喋りながら歌ったんですよ。で、オヤジは、その時、『男道』と『夫婦かたぎ』を歌って。」

6 メジャーデビュー前からあった『南部蝉しぐれ』 〜「ついでに歌ってたんですよね…」〜

 2012年10月24日に、キングレコードからメジャーデビュー曲として発売され、大ヒットとなった『南部蝉しぐれ』(KICM-30471)は、実は、その2年前、2010年6月23日にも、一度、発売されている。いずれもキングレコードが出ており、ジャケットと品番が違うだけで、中の音源に変わりはない。
 2010年盤の『南部蝉しぐれ』(KICM-5535)は、いわゆる「P盤」(プライベート盤)と言われているもので、おもに手売りをするような自主制作盤、今で言うインディーズ盤のようなものだ。条件さえ満たせば、レコード会社から自費出版できるシステムがある。音源もジャケット写真も持ち込みになるため、メジャーデビュー時のジャケット写真は、ジャケット姿でキリッとした表情をしているが、2010年盤のジャケット写真は、カジュアルは服装でヒョウ柄のマフラーだ。
 だから、2010年盤は、おもに、福田こうへいの地元、岩手で売られていた。

 「はい、はい……。これはね、もう喋ると、ちょっと長くなるんですけど(笑)。実は、初め、俺じゃなくて、オヤジが歌うハズだった歌なんですよ。と言うのが、岩手で、カラオケの番組 "IAT 出前カラオケ"(岩手朝日テレビ)っていう番組の司会をオヤジがやってたんですよ。その番組っていうか大会は、月に2回やってて、12月にグランドチャンピオン大会をやるって前に、オヤジは死んじゃったんです。死んでしまった後に、あの〜、"次の年から廣平さん司会やってもらえませんか?" って言われて、自分がその番組と大会の司会をやらせてもらうことになって、2〜3年くらいやらせてもらいましたね。」

 「その大会に、作詞の先生である 久仁 京介(くに きょうすけ) 先生が審査委員長みたいなので来たことがあるんです。久仁先生は、あの『津軽恋女』(新沼謙治)作ってるじゃないですか。そいで、飲んでる席で、"『津軽〜』って歌はあるけど『南部〜』って付く歌って無いんだよな〜" っていう話しをしたら、久仁先生が、"こういう風な歌、作詞してみたんだけど" って『南部蝉しぐれ』を作ってきて、で、その番組と、番組のスポンサーの方に持ってきたんです。で、先生が作ってきたっていうのであれば、なんか形にしたいね〜って言ってて、もし生きてれば岩月さんに歌ってもらいたかったけど、今は、廣平さん、息子さんになったから、じゃ、廣平さんで、記念として『南部蝉しぐれ』作りましょうってなって、それで作ったのなんですよ。」

 作曲は、同じく岩手県(水沢市)出身で、細川たかしが歌った『浪花節だよ人生は』でも知られる 四方 章人(よも あきと)が担当した。

 「ま、あれですね、四方先生も岩手の方なんで、岩手の方にどうですかっていう風な話になったみたいで。それで出来たんですよね。」

 そういう経緯で、主に地元の岩手で売られることを目的に、2010年に「P盤」として、地元のインディーズ盤のような形でリリースされた。

 「その…… P盤 とかって言い方とか、呼び方も全然知らないで、出してたんでね。全く分かんねがったもんな。で、まあ、別にアッチコッチに行ってキャンペーンやるわけでもなく、ただ、民謡の仕事に行ったらば、"こういう歌が出来ました" って言って、ついでに歌ってたんですよね。そしたらね、地方にいながら、だんだん 1万枚超えました、1万5千枚超えました…… ってなっていって、キングさんから "デビューしませんか" っていう声が掛かったんです。」

 数多くの民謡全国大会で優勝しただけでなく、父の後を継いでテレビ番組の司会もしていたことから、盛岡市の呉服店で働きながら、地元の民謡歌手としても活動していた。そんな中で生まれた『南部蝉しぐれ』は、その楽曲の良さに加え、圧倒的な歌唱もあって、地元の岩手を中心に売れた。1万5千枚というのは、キングレコードが目を付けて当然の数字だ。そこそこ名前が知れたメジャーの歌手でも、数千枚しか売れないことはザラにある。しかし、歌手デビューの話を最初は断った。

 「1回 声が掛かり 断って、2回 掛かり 断って……。で、"なんで断るんですか?" って聞かれて、"いや、オヤジ死んで、農家を継がないといけないから、デビューなんか出来ないですよ" つったんですよ。」

 父親が亡くなった後、実家では祖父と祖母が農業をしていたので、自然と、長男の自分がその後を継ぐものと思っていたし、そもそも、それまで、歌手になることなど考えたこともなかった。

 「そしたら、"じゃぁ、どういうカタチだったらデビューしてもらえるんですか?" って言うから……、"じゃあ、民謡の日本一、本当の日本一を獲ったらばいいですよ" って言ったんですよ……。まぁ、そう言っとけばデビューしなくて済むなと思ったら、次の年に、その約束していた『日本民謡フェスティバル』で日本一になって、それがデビューするきっかけになったわけなんですよ。」

 2012年(平成24年)に NHKホールで 行われた『第25回 日本民謡フェスティバル 2012』で、福田こうへいは、父親も果たせなかったグランプリを獲得して、「日本一の民謡歌手」の称号を得た。と同時に、キングレコードから歌手デビューすることも決まった。

 「あの〜、6月の中旬くらいに、『日本民謡フェスティバル』があって、で、優勝した途端にすぐ、6月にキングレコードさんと事務所の社長さんが来られて、"約束通りデビューしてもらいます! だから、9月には呉服店の仕事もやめてもらいます!" って言われて(笑)。」

 こうして、その年、2012年10月24日に、36歳で歌手としてメジャーデビューすることになった。デビュー曲は、2010年に「P盤」として出していた『南部蝉しぐれ』を、録り直すこともなく録音もそのままに再発売の形で、ジャケットだけをメジャー仕様に変更してリリースすることになった。再録音もしていなかったから、発売の直前、前の月の9月まで呉服店で働いていた。

 「でも、俺、演歌のイメージっていうと、派手なイメージだったから、『南部蝉しぐれ』の "♪ジャッ ジャ ジャッ ジャッ ジャッ ジャー" じゃ売れねぇんじゃないかな〜って思いながらいたんですよね。だから、デビュー前も、おじいちゃん、おばあちゃんにちょっと約束したのが、"5年でうんともすんとも当たらないようであったら、すぐやめで東京から戻ってくるがら" って、そういう約束でまずデビューしたんですよ……。だから、まあ、いい具合に 2年目のころから紅白に出させてもらって、それで "がんばれるのかな〜" って思いましたね。」

 最初、2010年に最初の『南部蝉しぐれ』を発売し、2012年にメジャーデビューするまでの間には、2011年3月11日の東日本大震災があった。まさに震災のその時には、福田こうへいは、勤めていた呉服店の支店、海沿いの釜石からも近い遠野市のショッピングセンターにあった「遠野店」にいた。
 津波で知人をなくしていたこともあり、震災後は、地元の民謡歌手として多くの避難所や集会所で歌い、今でも、被災地でのコンサートは続けている。

 52歳の若さで 2005年に 亡くなった父親、2011年の東日本大震災、そんな中で「生かされている使命感」みたいなを感じたことも、歌手デビューを決めた理由のひとつとしてあるのかもしれない。
 父に、歌手デビューした晴れ姿を見せることは叶わなかったが、父がきっかけで出来た『南部蝉しぐれ』は、今では、父親と二人で歌っている気持ちだと言う。

7 とにかくお客さんを楽しませたい 〜「ブランドにちょっとずつなっていきたい…」〜

 2012年10月24日に発売されたメジャーデビュー曲『南部蝉しぐれ』は、翌 2013年(平成25年)にかけて、いきなり大ヒットした。

 「実感はなかったですね〜。まあ、あれは『歌謡コンサート』に出させてもらったお陰かな〜って思いますね。」

 発売の翌年、2013年1月に『NHK 歌謡コンサート』(現在の『うたコン』)に初出演し『南部蝉しぐれ』を歌った。共演していた北島三郎からは「平成の三橋美智也」と絶賛された。出演後は、オリコン 演歌・歌謡曲 週間チャートで 1位になるなど、さらにセールスを伸ばし、年末には、「日本有線大賞」や「日本レコード大賞」の新人賞を受賞し、NHK 紅白歌合戦にも初出場した。
 続く、セカンドシングル『峠越え』も、オリコンの J-POP も含めた総合シングルチャートで初登場6位となるなるヒットとなり、翌 2014年にも紅白に連続出場、その後も、2016年、2017年にも出場し、これまで紅白には、計4回出場している。
 2015年から2016年にかけては、事務所を移籍した際の契約問題で騒がれ、思うように活動できないつらい時期もあったが、父親のカバー曲『男道』をカップリングにした、2016年に発売された 3作目のシングル『北の出世船』以降は、さらに活動の幅を広げている。コロナ前は、信じられないくらいの数のコンサートをこなしていた。

 「でしたね〜、一昨年までは。年間、最低でも150本くらい……。1日にまず2回公演やりますから、その回数を全部計算してくと200は超えましたね。そのほかにも、劇場公演とディナーショーが入ってきますから。」

 加えて、そこに、テレビ出演やイベント、リリースとなればプロモーションのキャンペーンなども入ってくるから、ほぼ毎日、どこかで歌っているというような状態になる。地方での公演やイベント、キャンペーンだと移動日も必要になる。それでも疲れを感じないという。

 「辛くないですね。不満はないですけど、それより、お客さんを喜ばせられるかっていう……、それが、なんかこう試されてるみたいな感じがあって……、面白いですよ。まず、1本1本、確実にお客さんを喜ばせられるようにって思ってやってましたね。」

 とにかく、お客さんを楽しませたいという気持ちが強い。しゃべりも面白く、サービス精神が旺盛だ。常に全力で、100% 以上のサービスをしようとする。そのためか、2017年には、のどの炎症で 2週間入院したり、2018年にも公演後に吐血したりしたこともある。2018年の時は、後日、入院はしたが、とりあえずの応急処置だけで、翌々日のテレビ番組には出演している。それほど、責任感と、お客さんの期待に応えたいという気持ちが強い。
 だから、コンサートでは、自分の歌だけでなく、カバー曲もたくさん歌う。三橋美智也の歌はもちろん、東海林太郎の『名月赤城山』、北島三郎の『山』や『与作』、千昌夫『星影のワルツ』、吉幾三の『酒よ』、細川たかし『北酒場』や『北緯五十度』といった曲などに加え、松村和子『帰ってこいよ』、都はるみ『北の宿から』、岸千恵子『千恵っ子よされ』、川中美幸『二輪草』など、意外な女性ボーカルの歌も歌う。 

 「うん、もう自分の歌だけでコンサートは組み立てられるんですけど、いかに、お客さんに喜んでもらえるか……。この人がこういう歌を歌ったらどういう風に聴こえるのかな〜みたいなのも、お客さんに聴いてもらって反応を見たいなっていうもありますから、そういう狙いで、いろんな方の歌も入れますね……。歌ってても楽しいですね。」

 根っからのエンターテイナーだ。最近は、親子でコンサートに来る姿もよく見かけるようになった。

 「うれしいですね。自分の場合、ファンというか、聴く人の年齢層が高いので、親子で出かけるっていうコンサートの機会が多くなってるのかな〜って思いますかね。本来は別々の生活、実家にお父さんお母さんがいてってことなんだけども、でも何かの時に、一緒に来てくれる、そういう家族が多くなったかな〜っていうようにも思いますね。」

 やりたことがあると話す。

 「おっきいのは、外でのフェスを考えてたんですけど、岩手にすごい広い農場がありまして、そこにステージを組んで、そこで、民謡もあり、さんさ踊りもあり、で、自分のコンサートもありみたいな、そういうフェスを、コロナ前に予定していましたんでね。だから、いい時期に、やりたいな〜って思いますね。このコロナの状況がなくなれば、もうすぐに実施できるんですけど……、今は、まだ、なかなか、外でやっても難しいなぁ〜っていう状況がありますんでね。」

 民謡と演歌のフェスを岩手でやるというのは、地元への恩返しや、民謡の活性化を考えてのことだろう。そこにも、何か使命感のようなものも感じる。最近は、忙しくなってしまったが、1週間くらい何もなければ、岩手に帰っている。
 歌手としての、今後の目標を聞いてみた。

 「そうですね〜、やっぱり、みなさん、先輩方ってブランドになってるじゃないですか……、三橋先生、北島三郎さん、五木ひろしさんとか、みなさんがひとつのブランドになってるじゃないですか。そういう、声を聴いた時に、"あっ、福田こうへいだな!" ってわかるくらいの、ひとつのブランドにちょっとずつなっていきたいって思いますね。」

 そして、7月14日には、早くもオリジナルの新曲『男の残雪』(作詞:坂口照幸、作曲:四方章人、編曲:南郷達也)が発売される。シングルとしては、今年、3枚目、オリジナルとしては『かんべんナ』に続く今年2曲目の新曲で、作曲は、シングルでは 4作ぶりに『南部蝉しぐれ』の四方章人というから楽しみだ。

(取材日:2021年5月12日 / 取材・文:西山 寧)




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