いろいろわかる… 三山ひろし ロングインタビュー!「ボクは

 

インタビューの最後に、プレゼント情報あり!

 

 

Miyama Hiroshi

 

三山ひろし

 

12th Single 「北のおんな町」【感謝盤】

 

 

★ デビュー11年目! 5年連続「NHK 紅白歌合戦」出場中! けん玉でも有名!

★ 1月発売の最新シングルに、2曲のオリジナルを加えたリニューアル盤!
★ 響き豊かな歌声で切ない、メジャー調のゆったりした王道演歌「北のおんな町」!
★ 新オープンする水族館の応援ソング「SATOUMI 〜幸せは、あさこいよさこい」!
★ 三山ひろし自身をモデルにした明るい応援歌「ありんこ一匹」!

歌手を夢見て 24歳の時に上京。最初は、青果市場 で働いていた!
2009年、28歳の時に『人恋酒場』でデビュー!
「ボクは "氷川チルドレン" ですね…」

 

 

 

北のおんな町」歌詞を見る!

「SATOUMI 〜幸せは、あさこいよさこい〜」歌詞を見る!

「ありんこ一匹」歌詞を見る!

 

 

 

リリース情報

 

 

 

 

三山ひろし「北のおんな町」【感謝盤】
CD シングル

2020年7月8日発売
CRCN-8304
¥1,350(税込)
日本クラウン

<収録曲>
M1. 北のおんな町 (作詞:喜多條 忠、作曲:中村典正、編曲:石倉重信)

M2. SATOUMI ~幸せは、あさこいよさこい~ (作詞:もり ちよこ、作曲:小杉保夫、編曲:小杉保夫)
M3. ありんこ一匹 (作詞:原 文彦、作曲:中村典正、編曲:伊戸のりお)
M4. 北のおんな町 ーオリジナル・カラオケー
M5. SATOUMI ~幸せは、あさこいよさこい~ ーオリジナル・カラオケー
M6. ありんこ一匹 ーオリジナル・カラオケー

 

三山ひろし 日本クラウン

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7月29日 YouTube 生配信 第2弾開催!

 

7月29日(水)19:00 から、三山ひろし 公式 YouTube チャンネル にて、YouTube 生配信第2弾の開催が決定!
今回、三山ひろしが生配信で歌唱する曲を(一部)ファン投票で決定。
対象曲は、「歌い継ぐ!昭和の流行歌 Ⅰ〜Ⅹ」「歌い継ぐ!日本の流行歌」の中の30曲です。
リクエスト受付期間は、7月10日(金)から7月12日(日)23:59 まで!

リクエストはコチラ!

三山ひろし 公式 YouTube チャンネル

 



 

 

■ 三山ひろし ロング・インタビュー

 

 

 「NHK 紅白歌合戦」には 5年連続出場中で、今では国民的な人気歌手のひとりとなった三山ひろしは、持ち歌のオリジナル曲はもちろん、カバーを歌わせても、なんでも上手く歌う。
 しかし、いわゆる「歌のレッスン」を受けたことは、ほとんどない。

 仮に、「歌のレッスン」が、理論的なものであるとするならば、三山ひろしの場合、理論ではなく、その鋭い感覚によって、多くの人が理論的に学ぶものを、自然に身に付けたのだろうと思う。野球で言えば、長嶋茂雄みたいな感じだろうか。天才肌だ。ゴロも、ひたすらたくさん捕球すれば、自然と捕り方も身に付く。

 さらに、それだけでなく、研究熱心でもある。

 「歌うことが大好き」だから、「より上手く歌いたい」と思うのは当然だ。大好きな、三橋美智也、春日八郎、三波春夫、村田英雄ら、往年の昭和の大歌手たちのように歌いたいと思い、マネをすることにより徹底的に研究した。

 そもそも、いつの時代でも音楽とは、国やジャンルや楽器に関わらず、全て、最初は「マネ」から始まるものだ。

 もちろん、本人は、「ただ好きでやっていただけ」だから、「研究した」などという意識はないと思う。まさに、「習うより慣れろ」の実践だ。音楽の耳も、極めて良いのだろう。

 デビュー前には、詩吟に人生を教えられ、歌は人間力だとも言う……。

 明るく、真面目で、素直。人気者のキャラクターで、まわりの人が、つい応援したくなってしまうような、気持ちの良い青年。常に、まわりへの感謝の気持ちも忘れない。たしかに、その人柄が、歌にも滲み出ている。テレビなどで見る軽妙な受け答えや話のうまさからは、頭の良さを感じるし、やや古風な話し方も、生真面目な彼らしい。

 明るくて、ヌケがよく、それでいて柔らかく豊かな響きの歌声は、さわやかで、聴くと元気になれる。デビュー時の三山ひろしのキャッチフレーズ「ビタミンボイス」とは、うまく言ったものだ。

 しかし、その「ビタミンボイス」も、三山ひろし本人が「ビタミンたっぷり」でないと、出せないということなのだろう。

 

 

 

<もくじ>

1 『北のおんな町』 〜「海が見えましたね…」〜

2 新曲は1回で覚える 〜「ボクの意見も聞いてくれるんですよね…」〜
3 『北のおんな町』は 宮史郎と城卓矢のイメージで 〜「そういう雰囲気で行きたいなと…」〜
4 カップリング曲『SATOUMI 〜幸せは、あさこいよさこい〜』 〜「完全にポップスですね…」〜
5 カップリング曲『ありんこ一匹』 〜「この曲は、ボクをイメージして…」〜

6 支えてくれる人たちへの感謝 〜「この人は宇宙から来たのかなって…」〜
7 歌のうまさの秘密 〜「上手に自分の中で消化できたから…」〜
8 聴いていたのはずっと昔の歌 〜「やっぱり、おばあちゃんですね…」〜
9 詩吟が教えてくれたこと 〜「自分の器の小ささですよね…」〜
10 「NHK のど自慢」に 2度目の挑戦 〜「ボクは "氷川チルドレン" ですね…」〜 

11 後の師匠、松前ひろ子との出会い 〜「あの出会いがなければ、今はないですよね…」〜
12 司会をしながら歌う 〜「自己紹介もできなかったんですよ…」〜
13 デビューのきっかけ 〜「涙でました…」〜
14 紅白初出場 〜「実際に生で見せることができて…」〜
15 歌の技術よりも人間力 〜「歌に影響してくるんだと思います…」〜

 

 

 

 

1 『北のおんな町』 〜「海が見えましたね…」〜

 三山ひろしの『北のおんな町』は、もともと、今年、2020年1月8日に発売された通算12枚目となるシングルだが、2020年7月8日に、カップリングに新曲2曲を加えたリニューアル盤『北のおんな町【感謝盤】』として発売となった。
 北海道を舞台にした『北のおんな町』は、2014年の6枚目のシングル『あやめ雨情』以来、5作品ぶりの女唄。メジャー調のゆったりしたテンポの王道港町演歌で、三山ひろしの明るくヌケの良い、響き豊かな歌声で、切ない気持ちにさせられる曲だ。基本的には、前作、2019年の『望郷山河』の曲調や雰囲気を踏襲しつつも、よりドラマティックで、感動的な作品になっている。

 「本当に、かなり久しぶりの女唄です。『お岩木山』からずっと男唄が続いてて、ここに来て久しぶりに女唄だったので、原点回帰的な気持ちになりましたね。いや〜、おかげさまでね、結構、皆さんにカラオケで歌って頂いてるみたいで、ありがたいです。」

 『北のおんな町』は、昨年、2019年の8月に亡くなった、三山ひろしを育てた師匠であり、義理の父でもあった作曲家・中村典正による最後の作品で、作詞は、かぐや姫『神田川』、梓みちよ『メランコリー』、キャンディーズ『やさしい悪魔』、五木ひろし『凍て鶴』などや、最近では、伍代夏子の『肱川あらし』や山内惠介『スポットライト』などで知られる喜多條 忠。とくに、Bメロ、「どうして私は 変われない」「想い出みなとの 酒場まち」「わたしをひとりに しないでよ」がいい。言葉が感動的に伝わるように作られたメロディに加え、その爽やかな歌唱で、心に響いてくる。

 「あ〜、ありがとうございます。そういうところにやっぱり中村先生のメロディーがあるんですよね。」

 イントロを聴いただけで、すでにいい曲だ。イントロの前半4小節の泣きのサックスが良いのだが、その後に続くストリングスがまたいい。

 「そうですね……、最初に聴いた時には、もう、なんかこう……、海が見えましたね。やっぱり、歌う側としては、仮オケを録る時が一番ドキドキする瞬間なんですよね。どんな風に仕上がるのかなぁって。そういう意味でも、やっぱり、編曲もすごい大事だなと思いましたね。」

 結果的に、中村典正の遺作となった『北のおんな町』をもらった時には、すでに、中村典正は闘病中だったようだ。

 「具合が悪くなってからは、先生はピアノも弾けなくなっていたので、サックスの方に来ていただいて、その方に、『北のおんな町』をピアノで弾いていただいて、事務所で録音したもの聴いて、この曲を覚えました。詞がないとメロディが書けない先生でしたから、歌詞は先にあったんで、ピアノで弾いたメロディを聴いて、歌詞を乗せていきました。」

 

 

 

 

2 新曲は1回で覚える 〜「ボクの意見も聞いてくれるんですよね…」〜

 一般的には、歌手が新曲をもらう時には、作曲家が仮歌を歌ったデモ音源と譜面という形で渡されることが多いようだが、三山ひろしの場合は違う。

 「ウチの場合は、作家の先生が事務所でいつも一緒にいて、その師匠が曲を作ってくれてたので、ちょっと違うんです。普通は、アレンジとかいろいろ終わった後に聴いたりするらしいんですけど、ボクの場合は、作家の先生がいる強みがあって、先生がピアノをたたいて、メロディーを考える時点から参加が出来るんですよ。」

 「基本的には詞先で、まず、詞が先に来て、先生がピアノたたいて、それに曲をつけていくんですけど、"こっちの方が歌いやすいかな?" とか、"こっちの方はどうかな?" とか、"自分でどんな節をつける?" とか、ありがたい話で、そうやって聞いてくださって、僕の歌いたい歌い方とか、歌いたいように書いてくれるんです。」

 ある種、セミオーダーメイドのようなものだから、三山ひろしにぴったり合わないわけがない。デビュー前から知っていて、デビュー曲から三山ひろしの曲を書き、三山ひろしをここまで育てた師匠だから、当然、三山ひろしの良さを知り尽くしている。いいところで、三山ひろしの最もオイシイ声が出るようにメロディを作っていたのだろう。

 「そうですね……、何も言わなくても、僕の歌い方とか知ってくださってるので……。というか、もう僕のことが分かってるから、先生も "こう来るだろうな" "こういう風に歌うだろうな" っていうのを考えられた上で作られているんですけど、さらに、"もっとこうしたら歌いやすいとかあったら言ってね" ってボクの意見も聞いてくれるんですよね。"これはどうか?"っていう感じで……、ご存命の時は。」

 「でも、今回の『北のおんな町』に関しては、もう闘病中だったので、メロディーができた後に渡されて聴いて、「あ、今度は、これを歌うんだな……」っていうそういう感じでしたね。」

 師匠の中村典正も最初は歌手を志していただけに、歌い手の気持ちもよく理解できるのだろう。しかし、最初のころは、厳しかったようだ。

 「ご病気になってからは、先生の歌は聴けなかったですけど、それこそ、デビュー曲『人恋酒場』の時とかは、先生がピアノをたたきながら歌ってるのを、その横に立って、譜面を見ながら聴いて覚えるんですよ。」

 「それで、先生がワンコーラス歌ったら、次のコーラス、2回目に弾く時には、もう覚えて歌ってろっていう感じだったんですよ。1回で覚えなきゃいけなかったんです。だから、集中して1回聴いて、次に "やるぞ!" って言われたときには、もう歌えなきゃいけない……。でも、やっぱり、2〜3回間違えたりするんですけど、そうすると怒られたりとか……、そういうことはありました。」

 「でも、それのおかげで、曲を覚えるのは早いです……、忘れるのも早いですけど(笑)」

 

 

 

 

3 『北のおんな町』は 宮史郎と城卓矢のイメージで 〜「そういう雰囲気で行きたいなと…」〜

 音楽番組などでは、どんなカバー曲も見事に歌いこなし、人気のカバーアルバムシリーズ『歌い継ぐ!昭和の流行歌(はやりうた)』も10作以上リリースしいている三山ひろしだが、自分がお手本にならなければならない自身のオリジナル曲は、どのように作っているのだろうか?

 「それは、あの……、やっぱり "先輩にならえ" じゃないですけど、先輩方がいろんな歌を残してくださっている中で、"多分、この歌に近いテイストはこの人の歌い方なんじゃないかな?" とか、"この歌の、こういう雰囲気を持ってくると、きっとぴったりなんだろうな" とか、自分の中で考えるんですよ。」

 「たとえば、今回の『北のおんな町』に関しては、宮史郎さんであったりとか、城卓矢さんのような感じだとか……、僕の中では、そういうイメージをすぐ持ったんですよ。そういう雰囲気で行きたいなと。」

 「女唄なんだけども、どこかに "かっこよさ"、というか、ちょっとトッポさがあったりとか……。あと、歌い出しのところで印象付けたいなと思って。それで、「女心の〜」の最初の「女」にちょっとアクセントをつけて、「おんなぁ〜ぁ〜ぁ〜」ってフェイクじゃないけど、そういうのを入れたいと思ったんですよ……メロディを聴いた瞬間に。宮史郎さんの縦揺れのビブラートで、イントロのテナーサックスの感じを声でも出したかったんですよ。」

 「宮史郎さんのような、ああいういい意味で錆びたというか、男のいぶし銀的な声を出しつつ、城卓矢さんのように、かっこよくちょっとトッポい感じで歌いたいなと……。僕の中では、その二つを合わせたものを作っていきたいと考えて、今回、歌ってみました。」

 毎回、オリジナル曲のレコーディングの前には、今回と同じように、昭和の名曲、ヒット曲を具体的にイメージしながら作り上げているようだ。

 「レコーディングの時には、ディレクターさんから、"それはちょっとどぎついんで……" とか、"もうちょっとソフトな感じがいいかな……" とか、"もうちょっとここは遊んで……" とか言われるんですけど、まず最初は、自分のイメージでぶつかってみるんです。ぶつかってみて、"いいね、それ!" って言われたら、"やっぱりそうなんだ" って思えますからね。」

 「それで、今回も、そういうイメージを持ってレコーディングに行って歌った時に、それで OK だったんで、"あっ、間違いなかったんだな" って思えましたね。ディレクターさんが伝えたい詞の世界とか、イメージというものと、ボクが思ってるイメージで歌ったものが、一致したんだと思います。」

 「だから、全部が全部、自分のオリジナルというわけではなくて、先輩方のテイストを、一度、自分の中に取り込んで、三山ひろしのフィルターを通して出しているんですね。やっぱり、先輩方が残されてきた芸のひとつひとつが、自分の身になり骨になっているんです。」

 「企画アルバムも含めると、カバーアルバムも結構たくさんあるんですけど、そういうので、いろんな人の曲を聴いたことも、良かったんじゃないかと思います。」

 

 

 

 

4 カップリング曲『SATOUMI 〜幸せは、あさこいよさこい〜』 〜「完全にポップスですね…」〜

 今回の【感謝盤】にカップリングとして収録された新曲『SATOUMI 〜幸せは、あさこいよさこい〜』は、三山ひろしの地元、高知で7月18日にオープンする水族館「足摺海洋館 SATOUMI」の応援ソングだ。アップテンポのポップス調で、伸びやかな歌声が気持ちよく、三山ひろしの歌のうまさを違った角度から再認識させられる曲だ。

 「これはもう、完全にポップスですね。とにかく、演歌色は一切入れないで、ポップスで行きましょうっていうことで、歌ってみたんですけれど。」

 サビの「幸せは あさこい よさこい」が耳に残る、キャッチーで爽やかで、CMソングにもなりそうな曲だ。

 「"よさこい" は、みなさんご存知かと思いますが、だいたい、"あさこい"って言葉はないんですよね。"あさこい" は造語なんです。"よさこい" は "夜に来い" だから、"朝にも来ていいよ" って言うか、"朝にも来て欲しい" っていう意味もあって、"あさこい よさこい" となったみたいなんです。」

 「作詞の もりちよこ 先生が、"どうやって高知色をだそうか" と考えたらしんです。それで、いろいろお考えになって、やっぱり高知といえば "よさこい" なので、そこにかけた何かを……、っていうのがあったんじゃないかなと思います。」

 作曲は、郷ひろみの『お嫁サンバ』などの歌謡曲のほかに、『おしりたんてい』『クレヨンしんちゃん』など多くのアニメソングを手掛けるヒットメーカー、小杉保夫によるものだ。

 「作詞も作曲も、編曲もそうですけども、全部、ディレクターさんが決めていて、おそらく、今回のこの歌には、こういう感じがいいなとなったんだと思います。「足摺海洋館」さんの希望が、演歌ではなくて、こういうポップなイメージで、全世代に好感を持ってもらえるような曲で、それで、今回の作家陣の先生方をチョイスしたんじゃないかなと思います。」

 

 

 

 

5 カップリング曲『ありんこ一匹』 〜「この曲は、ボクをイメージして…」〜

 もう1曲の新しいカップリング曲『ありんこ一匹』は、歌詞の内容も曲調も、北島三郎が歌うような、明るい応援歌で、A面にしても良いような曲。いい歌だ。

 「この曲は、最初のイメージは『いっぽんどっこの唄』とか、そっちの雰囲気で行きたかったらしいんですよ。"一人じゃ動かぬ荷物でも みんなでかつげば軽くなる" って歌詞があるんですけど、"みんなで頑張りましょう" っていうそういう曲なんです。」

 「実は、この曲は、ディレクターさんがボクをイメージして詞を発注したそうです。作詞の原文彦先生には、"三山ひろしという歌い手は、デビュー当時から、一人でやってきたわけじゃなくて、たくさんのみなさんの応援のもとに出来上がったものだから、そういう姿を詞に書いてほしい" って言ったらしんです。で、『ありんこ一匹』っていうこのタイトルが、最初に、もうディレクターさんの中にはあったんですよ。」

 ということは、「ありんこ」は、三山ひろしということになる。

 「そういうことです。実は、ボクが常日頃言ってたことなんです。レコード店向けのイベントの時とかに、ご挨拶とか関係者の方にするんですけど、"ひとりじゃなくて、皆さんの力をお借りして、こうして今現在歌わせて頂いております。皆さんが良い所に、手に取りやすい所に商品を置いていただからこそ、今の自分があるんです" っていうようなことを言っているのを、ディレクターさんも聞いていたんです。」

 「それで、あるレコーディングの時に、ディレクターさんが "三山ひろしは、ありんこなんだよな……" って言いだしたんです。"ちょっと、それどういうことですか?" って聞いたら、"ありんこは、一匹では生きてない。女王アリがいて、そして、軍隊アリとか、たくさんのアリの仲間がいて、初めてうまくやっていけるてるんだ……。これは、歯車は一個じゃ動かないのと一緒で、みんなでガチャっと合わせて動かしていきましょうと、そういうことなんだよな〜、ひろしは……" って言われて、そういうところから始まったんです。きっと、そこから、"次回作に『ありんこ一匹』っていうのいいんじゃないかな" みたいな発想をしたんじゃないかと……」

 

 

 

 

6 支えてくれる人たちへの感謝 〜「この人は宇宙から来たのかなって…」〜

 そういう明確なイメージやコンセプトを持っている優秀なディレクターが、デビューからずっと担当してくれているというのも恵まれている。さらに、三山ひろしのマネージャーも、同じくデビューから担当しており、「押しの強いバリバリのやり手」という雰囲気ではなく、むしろ控えめな感じだが、実に細かいところに気が付く極めて優秀な人だ。
 そういう、スタッフに恵まれていることや、自分を支えてくれている人たちのことを敏感に感じ取り、日頃から感謝の気持ちを口にする三山ひろしの感受性と人間性も素晴らしい。

 「ディレクターさんは、デビューの『人恋酒場』からずーっと一緒ですけど、ずーっと何にも変わってないですね、作風も考え方も……。でも、やっぱり、そのディレクターさんの考え方が、ちょっと特殊……(笑)」

 「あのですね……、最初に出会った時に、中村先生を交えていろいろお話をしたんですけど、その時に、"今回、こういう形で『人恋酒場』ができましたけど……、三山くん、ローマ帝国は…… この三角形があって…… 空中戦を広げて……" っていきなり話し出されて、全然言ってることがわかんなくて、正直、この人は宇宙から来たのかなってちょっと思ったんですよね(笑)」

 「でも、やっぱり、そういう自分なりの理論からはじき出して作品を生み出すという、そういう方なんですよ。だから、今回の『ありんこ一匹』が来た時も、ボクは、全く不思議には思いませんでしたね(笑)。"あ〜、あの時に言ってたありんこが来たのか……" って感じで、"なるほど!" と。

 一貫性があって、確固たる信念を持って、ブレないところがいい。

 「もうね〜、譲らないですね〜。とにかく、決めたら動かない人ですから(笑)だからブレはないです。ボクと同じで、融通が利かないんです。」

 1月に発売された方の『北のおんな町』のカップリング曲『徒情け』からも、ディレクターの明確な意図が感じられる。A面のメジャー調の『北のおんな町』に対し、『徒情け』はマイナー調の王道演歌。同じく女唄だが、歌詞に出てくる女性は違う。

 「詞は、麻こよみ先生に作っていただいたんですけど、『北のおんな町』の女性像と真逆のものを持って来てるんですよ。『北のおんな町』は、どちらかというと "すがる女" ですけど、『徒情け』は、"そんなのいいわよ!" って、なんか怒ってる感じの女性で、全く逆なんです。そういうものを1枚の CD でカップリングにするっていうのは、女性の姿が全然違うので、これもまた面白いとこかなと思って、ボクはありじゃないかなと思いました。」

 

 

 

 

7 歌のうまさの秘密 〜「上手に自分の中で消化できたから…」〜

 三山ひろしのシングル曲には、メジャー調の曲が多い。今回の『北のおんな町』を含め、これまでの全オリジナル・シングル12枚の中で、マイナー調の曲は、たった1曲、3枚目の『ダンチョネ港町』しかない。

 「そうですね〜、A面にくるのは、ほとんどそうですね。師匠がどうっていうよりも、ディレクターさんのチョイスだとボクは思いますね。どっちかと言うと、ボクは、陰ではなくて陽のイメージなんでしょうね。それで、ディレクターさんも、マイナーをA面に持ってくるよりは、メジャーの方がいいんじゃないかなってなったんじゃないですかね……。でも、実は、ボクが好きなのはマイナーなんですけどね。」

 メジャー調にしろ、マイナー調にしろ、オリジナルにしろ、カバーにしろ、三山ひろしという人は、本当に、なんでもうまく歌う歌手だ。今回も、カップリングを含め3曲、全く違ったタイプの曲を見事に歌いこなしている。ヌケがよく、明るく、豊かな響きの歌声だから言葉が伝わり、張ったところもチカラではなく、やわらかいから心地よい。ちゃんとしたボイストレーニングや歌のレッスンを受けたことはほとんどないのに、こんなにうまく歌えるのはなぜだろう?

 「いや〜、なんですかね〜。ボクは、たぶん環境じゃないかなと思うんですよね……」

 「普段から、"こういう風に歌ってみよう" とか "こういう風に声を出したら、こうなるな" とかっていう風には、あんまり考えて歌ってないですね。どちらかっていうと、そのまま歌ってる感じなんですよね。」

 「だから、たぶん、子供の頃からずっと育ってきた環境、東京に出てきてからの環境、そういう環境が、たぶんボクの声を、こういう風に作ったんじゃないかなって思いますね……。それがまずひとつ。」

 「それと、もうちょっと具体的に、技術的な感じで言うとするならば、やっぱり先輩方の歌を聞いて、"この人は、どうして高いキーなのに張らずに歌えるんだろうか?" とか、そういうことを考えながら真似して歌うっていうことはやってましたね。その…… "芸は模倣" じゃないですけど。」

 「だいたい、デビューしたばっかりの時は、"自分" ていうものがないですから。だから、段々と、その "自分" を確立するためには、やっぱり、たとえば "八代亜紀さんテイスト" であったりとか、"五木ひろしさんテイスト" であったりとか、三橋美智也さん、春日八郎さん……と、いろんなところから取ってくるんですよ。」

 「それで、取ってきて、ひとつにまとめて、"この歌を歌う時にはこう行こうかな" とか、オリジナルの歌唱を大事にしながら歌うんです。だって、その人が歌って、その曲が大ヒットしたってことは、どっかにその要因があるわけなんですよ。それを "探る" っていうか……、そこが、たぶん、一番じゃないかなと思いますね。」

 ぐうの音も出ないほどの正論だ。時代やジャンルや楽器に関わらず、全ての音楽家は例外なく「コピー」=「真似」から始めている。

 「やっぱり、宮史郎さんには、宮史郎さんの味があるわけで、あの味でもって大ヒットになったわけだから、やっぱり、そういう味、どっかに匂いがしないと、"いい歌だな〜" って思ってもらえることはないんじゃないかと、そういう風に思ったんですね、最初の頃に。」

 「その後、だんだん、自分でそれが消化できてくると、カドが取れていって、なんとなく "三山ひろし らしさ" になっていって、"あ、三山ひろしだな" って思っていただけるような歌い方ができるようになっていったんだと思います。10年やってみて思うのは、それですね。」

 「いろんな人からのものを吸収できて、それを上手に自分の中で消化できたから、良かったのかなって思います……。それに尽きるんじゃないかと思いますね。だから、やっぱり聞かなきゃいけないですね。」

 

 

 

 

8 聴いていたのは、ずっと昔の歌 〜「やっぱり、おばあちゃんですね…」〜

 三山ひろしが、歌手になりたいと思ったのは、物心がついたころ、3歳か4歳ころからだったと言う。きっかけは、同居していた母方のおばあちゃんだった。

 「やっぱり、おばあちゃんですね。おばあちゃんが、カラオケで歌うのが大好きで、川中美幸さんの『越前岬』とか、そういうのを歌って一生懸命練習しているわけですよ。それを見ていてたボクも、マイクを持って歌うことが面白いなと、楽しいなという風に思ってたのが3歳ぐらいの時ですね。」

 「小さい頃に、美幌健さんの『おいらの船は300とん』(高知県の酒の席でよく歌われる:筆者注)とか、そういう歌を歌ったり聞いたりしていましたね。あとは、三橋美智也さんの『哀愁列車』とか、それから『ご機嫌さんよ達者かね』とか、春日八郎さんの『別れの一本杉』とか、そういうの聞いたりしていましたね。今にして思えば、キングレコードさんの大スターの歌をよく歌ってました。」

 「ほかにも、三波春夫さんとか、村田英雄さんなんかの歌も、よく歌ってました……。おばあちゃんの影響なんで、ちょっと古いんですよね。」

 「だから、失礼ながら、五木ひろしさんとか、そのあたり……僕が生まれた1980年代、昭和55年とか60年あたりの曲とかっていうのは、もちろん、かなりの名曲なら知ってますけど、そのあたりの曲が、逆にあんまりわかんないんですよ。そこを飛び越して、ずっと昔の歌なら知ってるんですけど(笑)。」

 中学生、高校生になっても、ずっと、そういう歌ばかり聴いていた。しかし、初めて買ったCDは、意外にも安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S の『TRY ME 〜私を信じて〜』だ。

 「そうです、そうです。あの当時は、8センチCDですね、中学生の時です。友達はみんな、ボクが演歌を好きで歌ってること知ってるわけですけど、あの……、やっぱりボクらと同じ世代の人は、当然、演歌は聴かないですから、基本的にはその J-POP なんかを聞いてるわけですよ。ボクも友達と話が合わないんで、なんか CD とか持ってみようと……(笑)いま流行りの歌を買おうと思って、それで近所のレコード屋さんに行って、一番最初に買ったが『TRY ME』でした。」

 「実は、その次に、手を出そうとしたのが SHAZNA(シャズナ)がカバーしていた『すみれ September Love』なんです(笑)。あのジャケットを見て、なんて綺麗な人なんだろうと思って。それまで、テレビとか見てなくて知らないから、女の人だと思ってたんですよ。それが、男だったって、そういうギャップとかも面白くてね、なんか世の中にはいろんな人がいるんだと思いましたね。演歌の世界じゃちょっとない世界なので。『COUNT DOWN TV』とか見始めたのも、中学校3年ぐらいからでしたからね。」

 17歳、高校2年の時に、歌手を夢見て、地元で開催された「NHK のど自慢」に出場し、吉幾三の『雪国』を歌った。

 「吉幾三さんの歌は好きだったんですよ。アルバムも持っていました。もう、なんとも言えない温もりのある……なんか人間味があるんですよ。だから好きで聴いてましたね。」

 しかし、「のど自慢」の結果は、カネ2つだった。

 「カネ 2コだったから、これはもう歌手はダメだと思いましたね。」

 

 

 

 

9 詩吟が教えてくれたこと 〜「自分の器の小ささですよね…」〜

 三山ひろしは、これまで、歌謡教室や歌のレッスンに通ったことは、ほとんどない。

 「レッスンに通ったとかは全然ないです。おばあちゃんに習ってたというか……(笑) だから我流ですよね。」

 「地元のカラオケ大会に出るために、カラオケの先生という人に、一瞬だけ習ったことがあるんですよ。だけど、やっぱり人について習ったことがないから、なんか自分と意見が合わなくて……(笑)"自分はこういう風に歌うたいのに、なんでそういう風に歌わせるんだろう?" って思っていました。"譜面がこうだから" とか言われて、"いや……譜面はそうかもしれないけど……" みたいな。」

 「だから、やっぱり続かなくて、1ヶ月か2ヶ月くらいでやめたんですよね。人についてレッスンするっていうのは、たぶん、性に合わなかったんでしょうね。」

 高校を卒業してからは、一度は、歌手への道を諦め、地元、高知でガソリンスタンドに就職する。

 「そのころは、歌をやめて、社会人になって、ガソリンスタンドで普通に仕事をしていました。でも、おばあちゃんとしては、ボクを歌手にさせたいから、"もったいない、もったいない" ってずーっと言ってたんですよ。"絶対、歌手になったら大物になるから、しっかり今から勉強して、歌わないとか言わずに頑張りなさい" という風に言われてたんですよ。」

 その後、おばあちゃんの勧めで、詩吟教室に通うようになる。

 「それで、おばあちゃんは、ボクが、どうやったらもう1回歌に目がいくかなっていうのを考えて、"詩吟教室に通わせよう" と……。」

 「まず最初は、おばあちゃんがが詩吟教室に行き始めて、ボクが送り迎えするっていうところから始まったんですよ。最初は "ボクはもう歌わないからね" って言って、車で送り迎えだけしてたんですよ。でも、1時間ぐらい待ってないといけないので、"どんなことやってんのかな? ちょっと見てみよう" と思って、ちょっと顔出してみてみたら、"来なさい" って詩吟の先生に呼ばれて、それで歌うことになったんですよね。」

 カラオケ教室のレッスンはダメだったが、詩吟は楽しかったと言う。

 「面白かったですね。もともと嫌いじゃないから。それで、やっているうちに、気が付いたら、大会でいろいろ賞をもらうようになってて……。」

 結果的に、詩吟は2年くらいしかやっていないが、賞を取ったこと以上に、得たものは大きかった。

 「詩吟は、詩の世界がすごい深くて、文学の勉強じゃないですけど、漢詩を勉強することのついでに、歌を歌っている感じなんですよ。なんとなく、それが自分の心の中に、すごくいい影響を及ぼして、自分の中で "のど自慢でカネ2つだったからダメだ" っていう風に思ったんだけども、それは、ずいぶん小さな考えんだったんだなと……。もっと目を開いて、もっといろんな範囲で物を考えれば、これはあながち捨てたもんじゃないかもしれない……って思うようになって。」

 「もう、自分の器の小ささですよね……。その範囲の狭さ、それを漢詩が教えてくれました。」

 

 

 

 

10 「NHK のど自慢」に 2度目の挑戦 〜「ボクは "氷川チルドレン" ですね…」〜 

 詩吟の師匠になる道も勧められた。

 「そっから、詩吟で、高知県大会でそれでまあそれなりの成績を取って、今度は四国大会……、で、全国大会……ってなったわけですよ。でも、そういう風に詩吟の大会に出たことによって、だんだんと "やっぱり歌を歌うんだったら演歌が歌いたいな" という風に思うようになっていったんです。」

 「習っていた詩吟の先生が、コロムビアの吟詠家の先生だったので、"コロムビアの第二制作に頼んでやるから、君も演歌歌手になるんだったら、まず詩吟の師範になって、吟詠家を5年務めることができたら、いよいよ演歌歌手でのデビューもを考えてあげよう" と、こういうふうに言われたんですよ。」

 「でも、僕は、この5年が待てなかったんですよ(笑)5年経ったら、もう旬も過ぎちゃうと思って、お断りして、結局、そこからは、東京に出なきゃどうしようもないなーっていう風になってきたわけですね。」

 その後、上京を考えるようになるが、ガソリンスタンドで働いている時に、再度、挑戦した「NHK のど自慢」での結果も、それを後押ししたようだ。今度は、カネ2つではなく、2004年1月に、地元、高知県土佐清水市大会でチャンピオンになり、同年3月、東京渋谷の NHKホールで行われた「2003年度 NHKのど自慢 グランドチャンピオン大会」にも出場した。

 「土佐清水大会も、グランドチャンピオン大会も、氷川きよしさんの『白雲の城』を歌いました。氷川さん好きでしたね。氷川さんが『一剣』を出された時に、その『一剣』のカラオケ大会にも応募したんですよ。それくらい好きでした。会いたくて、会って自分の歌も聴いていただきたいっていう感じだったんですよね。」

 「だから、ボクは "氷川チルドレン" ですね……。」

 デビュー後、最初に、氷川きよしと一緒になった時には、さぞ嬉しかっただろう。

 「それはもう! 神々しい感じですから、挨拶するのがやっとでした……。いや〜、もう、今でさえご一緒させていただく時にはヘンな感じがしますね。」

 「それは、氷川さんだけじゃなくて、だって、今日だって、八代亜紀さんとデュエットするんですよ! そう考えただけで、すごいことだな〜って思いますね。」

 デビュー11年目になり、紅白にも 5年連続出場するなど、国民的な歌手のひとりとなった今でも、そういう気持ちを持ち続けている。人間性を垣間見る話だ。

 

 

 

 

11 師匠、松前ひろ子との出会い 〜「あの出会いがなければ、今はないですよね…」〜

 もう一度、歌手への夢を追いかけるために、25歳の夏に上京した。

 「仕事がなくて、最初は、葛西の青果市場に勤めてたんですけど、夜中の3時から昼の12時ぐらいまで仕事があるので、もうへとへとで、歌の練習が出来なくて……、もうぐったり疲れて何もできなかったんですよ。結局、もうそれだけでやってて、本当に市場の人になっちゃうって思ったんですよ。これじゃあ、ただ、働きに東京に来ただけだなって思ったんで、"すいません、やめます" って言ってやめました。半月ぐらいしかもたなかったですよね。」

 青果市場をやめて、1週間くらいが経ったころ、運命的な出会いがあった。

 「それで、また職を探してて、そんな時に、ボク、「NAK」(日本アマチュア歌謡連盟)に所属してたんですけど、事務局長だった竹本さんが、"仕事がないんだったら、松前ひろ子さんが、今「LIVEレストラン青山」をプロデュースしてプレオープンしたばっかりで、スタッフが足りないって言ってるらしくて、もしよかったら行ってみるか" って言われて、もう二つ返事ですぐに "お願いします!" って言いました。」

 松前ひろ子も、「LIVEレストラン青山」でのバイトには、歌を目指している若い人がいればいいなということで、「NAK」(日本アマチュア歌謡連盟)に話をしていたようだ。

 「それで、竹本さんが、"あ、ちょうどいますよ、ウチに。高知から出てきて、まだ仕事が決まってなくてフラフラしてるのがいるから、ちょっと声かけときます" って言って決まったんです。だから、2週間ぐらい青果市場に勤めて、1週間職探ししてる間にその話が来て、9月の1日か2日ぐらいに面接に行って、その翌日の 3日とか 4日ぐらいには、もう「LIVEレストラン青山」にウェイターとして勤めてましたね。」

 「本当に、今にして思えば、あの出会いがなければ、今はないですよね。」

 だが、働き始めたころは、寝る時間もないくらい忙しかった。

 「ウェイターは、お昼の間は仕事がなかったんですよ。当時、5時から11時まで夜の仕事だったから、昼間はまるまる空いてて、これじゃあ生活できないから、"コンビニで働かせてほしい" って松前先生に言ったんですよ。」

 「そしたら、"そんなことしてたら歌の勉強できないでしょ。あんた歌いにきたんでしょ" って言われて、それで、"レストランで夜働いて、昼間はそんなコンビニ行かずに、ウチの事務所で働きなさい。両方から給料もらったらいいんじゃないの" って言ってくれて、事務所にも入れて頂いたんです。」

 「ただ、その時、ボクとしては、そこで歌い手になれるかどうかわからないわけで、そこで歌手になろうとも思ってなかったんです。とにかく、"明日のメシがない" っていう状況だったので、とにかく働かせてほしかったんです。」

 「それで、朝10時に行って事務所の掃除をして、11時から仕事が始まって、ファンクラブの会報誌とか折り込みとか、会費管理とかも色々とかやって、4時半になったら下に降りて着替えて、店の掃除して、5時から営業して、11時に終わって……という毎日ですね。」

 「だから、もうヘロヘロです。だけど……、やっぱり、なんかこう前進してる感があるんですよ。音楽事務所に入れてるわけで、かつ、仕事はあるし、メシも食べられるし、もうこれ以上の環境はないわけですよ。だからその不満はなかったです。ただ、寝る時間が少ないだけで……。」

 

 

 

 

12 司会をしながら歌う 〜「自己紹介もできなかったんですよ…」〜

 ウェイターとして勤めていた「LIVEレストラン青山」で歌う機会が、すぐに巡ってきた。

 「月に1回カラオケ大会を、その当時をやってまして、「松前ひろ子 カラオケ大会」ってのがあって、最初の第1回目だけ司会を入れたんですよ。だけど、2回目からは "もう司会なしでいきましょう" ってことになって、それで、ボクがやることになったんですよ。」

 ステージやイベント、テレビなどでも、三山ひろしのトークは軽妙で、テンポもあるし、楽しい。

 「いやいや、ボク、来たばっかりの時には、全然しゃべれなかったんですよ。松前先生に、"あなた、もし歌手になるんだったら、しゃべりとか、自分でMCもしなきゃいけないから、勉強しなさい" って、いきなり司会やれって言われて、それでもう丸投げ状態で、台本も何にもないんですよ。」

 「だから、自分で台本を作って、自分でそのカラオケ大会で司会をしながら、ウェイターもしなきゃいけないし、音響もやんなきゃいけないんですよ。で、ピンスポも当てなきゃいけないし、なんやかんや忙しくあって……。で、カラオケ大会が終わると、審査の時間が30分ぐらいあるんですよ。その審査してる30分の間に "ちょっと歌いなさい" って、ボクの時間に当ててもらってたんです。それで、自分で司会して自分で歌うっていうのが、そっから始まったんです。9月から働き出して、10月に司会の人が入ってたんで、11月の回からですね。」

 「でも、最初は、自分の自己紹介もできなかったんですよ。自分の名前だけ言って "じゃ、歌います……" みたいな感じで歌ってたので、"それじゃ、あんたダメでしょ、ちゃんと、どこどこから来て、今こうして頑張って歌い手を目指してやってます、応援してください" くらいなこと言いなさいって言われて。」

 「で、自分なりにまとめて、それが1年ぐらいしてくると、だんだんとこう上手に喋れるようになって、なんとなく回せるようになっていきましたね。そうなると、歌も歌えるし、仕事は出来るし、もう最高でしたね。」

 「ま、だから、ボクにとって、歌い手になるための修行でしたね。3年しかなかったですけど、かなり濃密な 3年間だったと思います。」

 

 

 

 

13 デビューのきっかけ 〜「涙でました…」〜

 昼は松前ひろ子と中村典正の事務所の仕事、夜はウェイター、そして、毎月1回30分のステージ、そんなことを繰り返しながら、カラオケ大会などにも出場していた。
 地元の高知で出場した「NHKのど自慢」のあとにも、「ビクター全国歌謡グランプリ級別選手権大会」グランプリ、「クラウン歌謡フェスティバル全国大会」総合優勝、「第22回日本アマチュア歌謡祭 全国大会」最優秀歌唱賞、「シダックスカラオケフェスタ 全国決勝大会」準優勝など、多くの大会で好成績を修めたことも、その後、自信に繋がっていっただろう。

 松前ひろ子とともに、その夫である作曲家の中村典正も、三山ひろしの師匠だ。中村典正は、門脇陸男の『祝い船』や、鳥羽一郎『男の港』、藤あや子『むらさき雨情』(山口ひろし名義)で知られ、三山ひろしのデビュー曲の『人恋酒場』から、今回の『北のおんな町』まで、全てのシングル曲を作曲し、三山ひろしをスター歌手に育てた。

 「レッスンとかは、あんまりなかったです。中村先生は、その……あまりレッスンをする人じゃないので。松前先生は、たまに、歌っているの聞いて "もうちょっとこうした方がいいわよ" とか言ってくれましたけど、歌のレッスンをしたっていう経験は、ないです。どちらかと言うと野放しと言うか……(笑)。」

 「中村先生に、"歌いたい歌を歌ってみろ" って言われて歌ったことはありますけど、"もうちょっとこうだな" って、それだけなんですよ。だから、ピアノでの歌のレッスンとかは全然なかったです。デビュー曲もらった時くらいですね。」

 スターになれる人は、運も持っている。三山ひろしも、上京してわずか3年という、比較的短い期間でデビューした。きっかけは、2007年の「日本クラウン創立45周年新人オーディション決勝大会」で準グランプリを受賞 したことだ(グランプリは、桜井くみ子)。

 「クラウン45周年のオーディションの翌年にデビューすることを知りました。もし、グランプリ取ってれば、その翌年には、当然、デビューだったんですよ。でも、ボクは準グランプリだったから、すぐにはデビューできなかったんですけど、翌年に、デビューさせてあげたいっていう風に先生が言ってくれて、"専属作家やってるからクラウンでやろう" っていう話で、クラウンさんから出してもらうことになったんです。」

 「だけど、その年、ちょうどクラウンには "さくらまや" さんと、"大江裕" さんがデビューを控えていて、新人が3人一気に出ることになっちゃったうんですよ。そうなると具合が悪いと……。」

 「それで、先に、さくらさん(2008年12月)と、大江くん(2009年2月)がデビューして、その後に、僕が6月にデビューしたんです。だから、オーディションの翌年の暮れぐらい(2008年12月)には、"そろそろデビューするからな" っていうのは聞いてました。新人ってことで、準備期間も必要ですし、実際、暮れには、もう制作段階には入ってましたね。」

 それまでも、中村典正が誰かの曲を作っている時に、実際に歌うとどんな風になるのかを確認するために、三山ひろしが歌わされていたことが何度かあった。だから、突然、「これがデビュー曲だ」と言われた時も、また誰か他の歌手の曲だと思っていて、最初は信じられなかった。

 「いや〜、最高に嬉しかったですね。涙でました。自分の中でも、歌い手になるのは、もう30歳までが限度かなと思ってましたから。」

 「歌手にならなくても……っていう風に思ってたんですよ。事務所で働かせてもらってて、不満がなかったんですよ、全く。半ば、もう自分の歌の世界はちょっといいかなって。それよりも、両先生に何か恩返しをしないといけないって思っていましたね。」

 「だって、東京に出てきてから、雇ってるとはいえ、ずっと、ご飯食べさせてもらって、生活させてもらっるわけだから、ありがたいなってのもあったし、拾ってくれたようにボクは思ってたから、その恩返しができるだけでもいいやって思ったんですよ。」

 「でも、やっぱりデビューできるってなったら、自分がデビューしたら、今度は、歌で恩返ししなきゃいけないっていうふうに思って、それで気持ちを切り替えて、テビューすることになるんですけどね……。しかも、デビュー曲のカップリングが『望郷列車』ですからね。"夢を掴んで故郷に向かって走れ" っていうのはね……、もう、そういう気持ちでした……。涙が出たし、嬉しかったですね。」

 

 

 

 

14 紅白初出場 〜「実際に生で見せることができて…」〜

 2009年6月3日に発売されたデビュー曲『人恋酒場』は、1年かけて10万枚を超えるセールスを記録し、続く 2010年の『酔待ち酒場』、2011年の『ダンチョネ港町』『女に生まれて』と順調にセールスを重ねるとともに、三山ひろしの名前も知られるようになっていった。2012年発売の5枚目のシングル『男のうそ』では、オリコン演歌チャートで初の1位を獲得した。

 そして、歌手になって6年目、2015年発売、7枚目のシングル『お岩木山』のヒットで、「日本レコード大賞」優秀作品賞、「日本有線大賞」有線音楽優秀賞などを受賞し、年末には、初の「第66回 NHK紅白歌合戦」に出場した。
 この紅白初出場の時には、三山ひろしが歌手への道を志すきっかけを作り、本人以上に歌手になることを願っていた高知のおばあちゃんが、NHK ホールの客席に来ていた。歌唱前に「がんばって」と言われ、三山ひろしは目を潤ませながら『お岩木山』を歌った。二人、どちらにとっても、これ以上の瞬間はなかっただろう。感動的だ。

 「おばあちゃんとしては、"歌手になるんだったら、やっぱり紅白の舞台に立てるような、そういう歌手になんなきゃだめだよ" とかって、ずっと言ってましたからね。だから、その舞台を、NHKホール で、実際に生で見せることができて、すごく良かったなぁと思ってます。"ここまで来たよ" っていうのも見せることできたし……、お母さんにも。」

 「最初、お母さんは、どちらかと言うと反対してたんですよ。歌手なんて、どうなるか分かんないし、やっぱり手元から子供離れていくってのはね……、20になっても30になっても子供は子供ですからね……、寂しいなっていう思いもあったんだと思います。」

 ちなみに、最近は、紅白での「けん玉」が、ギネス記録になるなどすっかり有名になっているが、小さい頃からやっていたわけではない。デビュー後に、何か歌以外に特技があった方がいいと考え、2013年ころから始めたものだ。それが、これほどまでになるには、相当な練習を積んだのだろう。その一生懸命さ、生真面目さもさることながら、そもそも、「何か特技を」と発想したこと、自分でタネを蒔いたことがすごい。

 また、その紅白初出場の時には、両師匠、松前ひろ子と中村典正の次女と2012年に結婚し、一女をもうけていることも発表した。三山ひろしの両師匠は、師匠であるとともに、義理の両親にもなった。

 「やっぱり、師匠は師匠なんですよね……。だから、一回として "お母さん" と呼んだこともないし、やっぱり、中村先生、松前先生とか、師匠とか……、そういう言い方でしか言ってないですね。だいたい、家に帰ってプライベートになったりしても、あまり呼ぶことがないですよね。呼んでるとすると、なんだろうな………。」

 三山ひろしの二人の子供にとっては、おじいちゃん、おばあちゃんになる。

 「自分の子供は、松前師匠のことを、おばあちゃんだから "あーちゃん" って言うんですよ。で、おじいちゃんのことは "いーちゃん" って言ってたんですよ。でも、ボクは、そういう風に言うわけにいかないから、"先生" って言ってると、子供が "なんでパパは先生って言うの?" って聞くわけですよ。だから、"先生はね、偉大な先生なんだよ。パパの歌ってる歌、全部作ってるからね" って、いつも説明してるんです。そういう感じですよね。お父さんとか、パパとかママとか……、言えないですよね……(笑)」

 

 

 

 

15 歌の技術よりも人間力 〜「歌に影響してくるんだと思います…」〜

 芸事に完成はない。どんなにうまい超一流の歌手でも、死ぬまで「もっと上手くなりたい」と思っているものだ。これからのことを聞いてみると、意外な答えが返ってきた。

 「そうですね……、歌自体は、ある一定以上は上手にはならないんですよね……。もちろん、いろんな技巧とかは身に付くものだとは思うんですけど、"うまく歌おう" とかっていうのには限界があるんですよ。だから、自分のレベルを超えていくには、歌じゃないところで超えてかなきゃいけないなと思ってるんです。」

 「たとえば……、自分のスタッフであったりとか、自分と一緒に動いてくれてコンサートのクルーであったりとか、そういう人たちと作り上げるものっていうのは、それぞれが持っているものを寄せ集めて、みんなで作っていくものじゃないですか。そういうものを足して大きくしていくものだと思うんです。ボクは、素材自体は、クオリティーではあんまり上がらないんですよね……、多分、きっと、これ以上は、そんなには……。」

 「技術は磨けば多少は上がっていくとは思いますけども、まあ年齢もありますし、たぶん、そんなに変わらないんですよ。上げていくってよりも、この三山ひろしという歌い手の、そのスタイルというものを維持しながら、みんなでアイデアを出し合って、それで、みんなと一緒に面白いもの作っていくという、そういう感じですね……。それが、これから重要になるんじゃないかなと思うんですよね。」

 「だから、ボク自身に限ったことで言えば、歌が上手くなりたいってよりも、どちらかと言うと "人間力" をもうちょっと磨きたいですね。それが、やっぱり、最終的に歌に影響してくるんだと思います。技術じゃなくて、中身の人間的な部分で幅が出来てくると、歌が変わってくるんですよ。そういうところ磨いていかないと、意味がないと思うんです。」

 

 

 

(2020年6月17日 / 取材・文:西山 寧)

 

 

 

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