第29回 ペギー葉山「ケ・セラ・セラ」(1956年) -MUSIC GUIDE ミュージックガイド

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第29回 ペギー葉山「ケ・セラ・セラ」(1956年)

ケ・セラ・セラ なるようになるさ …
先のことなど 判らない ……
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ペギー葉山「ケ・セラ・セラ」

ペギー葉山「ケ・セラ・セラ(Que Sera, Sera)」(2:28) Key=G  C/W「ベラ・ノッテーラ・ラ・ルー」
作詞:ジェイ・リビングストン(Jay Livingston)、訳詞:音羽たかし、作曲:レイ・エバンズ(Ray Evans)
編曲:川上義彦、演奏:フォア・コインズ、渡辺弘とスターダスターズ
1956年(昭和31年)11月発売 SP盤 10インチレコード (78rpm、モノラル)
CL-211(11944) KING RECORD
パラマウント映画「知りすぎていた男」主題歌

<競作盤>
雪村いづみ「ケ・セラ・セラ(Que Sera, Sera)」 C/W「誇り高き男」
作詞:ジェイ・リビングストン(Jay Livingston)、訳詞:井田誠一、作曲:レイ・エバンズ(Ray Evans)
編曲:廣瀬健次郎、演奏:ビクター・オール・スターズ
1956年(昭和31年)発売 SP盤 10インチレコード (78rpm、モノラル)
A-5216(PN-6237) ビクターレコード
20世紀フォックス映画「誇り高き男」主題歌

 青山学院女子高等部(現:青山学院高等部)在学中から米軍キャンプで歌い始め、当時の一流ビッグバンドだった「渡辺弘とスター・ダスターズ」の三代目専属歌手として活躍し、高校卒業後の翌年、1952年にキングレコードから「ドミノ/火の接吻」で歌手デビュー。1954年(昭和29年)には 第5回 NHK紅白歌合戦に初出場。以後、1965年(昭和40年)の第16回まで12回連続出場、計14回出場(ほかに司会としても出演)。ヒット曲には、「ケ・セラ・セラ」「ラ・ノビア(泣きぬれて)」「南国土佐を後にして」「学生時代」「爪」などがあり、また、「ドレミの歌」は、ペギー葉山自らが日本語で作詞し日本に伝えた。2010年発売のシングルで、本人もとくに気にいっていた「夜明けのメロディー」は、NHKラジオ深夜便の「深夜便のうた」になり、約40年ぶりにオリコンにチャートイン。
 1952年のデビューから65年間、キングレコード所属歌手を貫き、生涯現役だったペギー葉山がレコーディングした曲数は2000曲を超える。1995年に紫綬褒章、2004年には旭日小綬章をそれぞれ受章。2007年には、日本歌手協会で初の女性会長(7代目)となり、2014年からは名誉会長。2016年発売で、再び NHKラジオ深夜便の「深夜便のうた」にもなったシングル「おもいでの岬」が最後のオリジナル曲となり、2017年4月12日、83歳で永眠。2017年6月22日に行われたお別れの会では、長年にわたり親交があった歌手のジュディ・オングが、お別れの言葉とともに『ケ・セラ・セラ』を歌い追悼した。


 ワタシたちは、自分で全てを決めて、自分のコトは全て自分でコントロールしているかのように思っています……。とんだ思い上がりです。人は、その人が属する社会や環境、そのコミュニティの中で、生かされている存在です……。敬虔なクリスチャンのヒトに言わせれば「そんなん当たり前やん!」(関西弁にとくに意味はありません)となってしまうと思いますが、ワタシたちは、ついつい、そういう錯覚に陥ってしまっています……。

 で、今回のような事態になると、それを痛感します。COVID-19 の猛威のもとでは何もできません。これほど、文明や技術が進歩し、宇宙にも行けるようになって、AI で電話やパソコンが喋り出すようになっても、たった 0.1ミクロンという、もはや素人にはなんだかサッパリわからないくらいの小さな存在の前に、人はあまりに無力です。

 テレワークができない業種の人、飲食店など自営業の人、リスクに曝されながら働いている医療関係の人、仕事がなくなってしまった人……、みんな困っています。なんだか、これまで作り上げてきた社会システムのあらゆるコトが、急にストップしてしまった気がします。

 ある飲食店のオーナーが、テレビのインタビューで「店を開けるも地獄、閉めるも地獄」と話していました。また、別の飲食店のオーナーは、「今は頑張る時じゃないんだよ、耐える時なんだよ……だって、しょうがないんだもん……」と涙ながらに語っていたのが印象的でした。胸を打ちます。
 もちろん、音楽業界も、全く何もできず、みんな苦しい思いをしています。「誰にも先は見えず、誰のせいでもない」だけに、やっかいです……。

 テレビでは、一日中、新型コロナのニュースばっかりで気が滅入りますし、よく「ピンチはチャンス」と言いますが、そう簡単に答えが出たりもしません。思い詰めていると、ネガティブなコトばっかり考えてしまったり、ドンドン近視眼的になって正しく考えられなくなり、判断を誤ってしまったりもします。

 だから、たとえば、小説を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたり、あるいは、何か趣味の作業をしてみたりとかすると、アタマの違った部分が刺激されて、ちょっとキモチがラクになったり、ちょっと見方を変えるコトが出来たり、もしかしたら、いいアイディアが浮かんだりするかもしれません。

 自分ではどうにも出来ないコトを考えても仕方ありません。その環境の中で何ができるのか?何が最善かを選択するしかありません。だから、判断を間違えないためにも、メンタル的に少しでも良い状態でいた方がいいハズです。

 音楽は「好きなモノを聴いて、ただ単に楽しめればいい」と思っていますから、意図的に何かに利用しようとするコトは、あまり好きではありません。しかし、音楽には、アタマで考えたり理解したりするよりも速く、理屈ではなく、直接、感情に訴えかけてくるチカラがあるのは、たしかです。

 実に不思議なモノで、誰もが涙するような感動的な歌がある一方、明るく楽しい曲なのに涙してしまうコトもあります。このペギー葉山が歌った『ケ・セラ・セラ』も、そんな1曲ではないでしょうか……。

 毒気を抜かれてしまうような、あまりに能天気で楽観的な、明るい曲調と歌詞なのに、でも、ペギー葉山の歌声を聴いて、思わず涙してしまったヒトもいるかと思います。3拍子の陽気で軽快なメロディに乗った言葉は、真理とも言える、普遍的な言葉だったりするからかもしれません。

 1番では、子供の時に母に尋ね、2番では、大人になって恋人に問いかけ、そして、3番で今度は、自分が母親となって子供に言っている言葉は、「未来のことは見えないしどうにもできない、くよくよ考えたって始まらない、人生はなるようになる、どうにかなるさ」というメッセージ。
 1963年に PPM が歌ってヒットしたボブ・ディラン作の『Don’t Think Twice, It’s All Right(くよくよするなよ)』や、1970年、ビートルズの『Let It Be(レット・イット・ビー)』、1971年のサンレモ音楽祭で発表され、岩谷時子による訳詞で越路吹雪や岸洋子、菅原洋一らが歌った『Che sara(ケ・サラ)』なども、似たようなメッセージの曲です。

 ちなみに、このペギー葉山バージョンの日本語の歌詞は、オリジナルのドリス・デイが歌った歌詞にかなり忠実に訳されていますが、実は、別の歌詞で、同じく1956年(昭和31年)に発売された雪村いづみが歌ったバージョンもあります。
 当時は、複数のレコード会社が同じ曲を一斉にリリースする「競作」というシステムが流行っていて、つまり、この『ケ・セラ・セラ』も、ペギー葉山と雪村いづみの「競作」でした。

 この「競作」という手法は、戦前からあったようで、とくに、1950年代〜60年代には多く見られました。たとえば、ニール・セダカのカバー『恋の片道切符』は、山下敬二郎と平尾昌晃の競作ですし、コニー・フランシスの『VACATION』は、弘田三枝子、青山ミチ、伊東ゆかり、金井克子、安村昌子による5人の競作……というように、当時は決して珍しくないやり方でした。

 外国曲のカバーだけでなく、たとえば、1970年の大阪万博の時の『世界の国からこんにちは』は、三波春夫(テイチク)、坂本九(東芝音楽工業)、吉永小百合(日本ビクター)、山本リンダ(ミノルフォン)、叶修二(日本グラモフォン)、弘田三枝子(日本コロムビア)、西郷輝彦・倍賞美津子(日本クラウン)、ボニージャックス(キングレコード)の8社のレコード会社が競作で発売しましたし、1964年の『東京五輪音頭』も競作でした。結果的には、どちらも三波春夫がひとり勝ちでしたが。
 その後も、『氷雨』『矢切の渡し』なんかもそうですし、『浪花節だよ人生は』に至っては、実に12社、16人が競作で歌っています。最近は、あまり聞きませんが、1987年のレコ大の大賞受賞曲『愚か者よ』は、近藤真彦と萩原健一の競作でしたね。

 で、ハナシがそれましたが、雪村いづみバージョンの『ケ・セラ・セラ』は、「心配せずに 神様の手にまかせましょう」とか「あしたのことなど誰にもわからない」と歌詞にあるように、基本のコンセプトは同じですが、日本語詞の内容は、原曲とはちょっと違ったアプローチです。それと、江利チエミの『テネシー・ワルツ』みたいに、日本語と英語が混じっていて、1-3番が日本語、2番が英語の原詞で歌われています。

 この雪村いづみバージョンの詞をつけたのは、井田誠一という作詞家で、和田弘とマヒナスターズの『泣かないで』、曽根史郎の『若いお巡りさん』なんかを書いた人で、この年、1956年(昭和31年)の年間売上1位が『若いお巡りさん』で、8位がペギー葉山の『ケ・セラ・セラ』だったりします。

 一方、ペギー葉山バージョンの詞をつけたのは「音羽たかし」で、それこそ、1952年(昭和27年)江利チエミの『テネシー・ワルツ』の訳詞や、ザ・ピーナッツの『情熱の花』や『悲しき16才』、平尾昌晃バージョンの『ダイアナ』、ペギー葉山なら『ドミノ』ヤ『火の接吻』など、多くの外国曲カバーの訳詞や作詞で知られる名前ですが……、実は、そんな人はいません……。

 「音羽たかし」というのは、キングレコードのディレクターが日本語への訳詞をする際に使ったペンネームです。江利チエミのディレクターだった和田壽三や、ザ・ピーナッツやペギー葉山を担当していた牧野剛も「音羽たかし」のひとりです。もしかしたら、他にももっと「音羽たかし」がいたのかもしれません……。なので、おそらく、この『ケ・セラ・セラ』の日本語詞は、牧野剛によるものではないかと思われます。

 それにしても、当時は、レコード会社のディレクターが作詞までしていたのですから、今考えればスゴイことですね。しかも、実にうまく訳してあり、音に乗せて歌うこと、意味だけでなく音としての響きも考えられています。

 ちなみに、『Que sera sera(ケ・セラ・セラ)』とは、スペイン語っぽいので、正しいスペイン語だと思っているヒトも少なくないようですが、そんなスペイン語はないそうです。英語圏で「なるようになる」という意味で使われている「スペイン語風」の言葉のようで、いわば、「日本語英語」みたいなモノらしいです。いろいろと議論はあるようですが。
 なので、ドリス・デイが映画の中歌ったオリジナルバージョンのタイトルは『Que Sera, Sera -Whatever Will Be, Will Be-』と、英語でサブタイトルがついていたりします。

 それにしても、ペギー葉山という人は、実に多彩な歌手です。声楽を習っていて、ジャズシンガーになって(当時は、ポップスもジャズと言っていた)、『ケ・セラ・セラ』や『ドミノ』『ラ・ノビア(泣きぬれて)』などの洋楽ポップスのカバーも歌えば、平岡精二による『学生時代』や『爪』、よさこい節の入った歌謡曲『南国土佐を後にして』まで歌うし、作詞家でもないのに情熱だけで『ドレミの歌』の作詞をしたり、しまいには「ウルトラの母」にもなっちゃったり……。
 こんなに幅広いジャンルでヒット曲を出した歌手は、ちょっと思いつきません。まさに、不世出のポップスシンガーと言えるのではないでしょうか……。ちなみに、この前の日曜日、4月12日は、ペギー葉山の亡くなって4年目の命日でした。

 ペギー葉山について語り出すと、また長くなるので、ヤメておきますが、2012年、歌手生活60周年の時にインタビューをする機会があり(60周年ですよ!キングレコード社員の誰よりも長くキングレコードを知っている)、その時のエピソードをひとつだけ……。
 当時、78歳くらいだったかと思いますが、インタビューに行くと、もちろん、レコード会社の宣伝担当者や事務所のマネージャーはいますが、ご本人が自宅の住所から電話番号まで書かれた「ペギー葉山」という名刺を持っていて、それだけでなく、インタビューのあとには本人から(自分でパソコンを打って)お礼のメールが来るし、確認のために原稿を送ると、「もしもし、ペギーですけど……」と直々に電話までかかってきて、内容に関してやりとりしたことを思い出します……。そりゃモ〜驚きました。そんな大物歌手、他にはいません。

 この『ケ・セラ・セラ』と大好きな『学生時代』、そして、自身も大変気に入っていたという『夜明けのメロディー』の明るい歌声を聴いて、ワタシは、これからココロをリセットします……。

(2020年4月15日 西山 寧)


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