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第3回  井沢八郎 「あゝ上野駅(ああ上野駅)」(1964年)

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井沢八郎 「あゝ上野駅(ああ上野駅)」

井沢八郎「あゝ上野駅(ああ上野駅)」 作詞:関口義明、作曲:荒井英一
1964年(昭和39年)発売  7インチシングルレコード (45rpm、モノラル) 東芝レコード/東芝音楽工業

1963年に「男船」で東芝音楽工業よりレコードデビューした、井沢八郎の3枚目のシングル。発売と同時に30万枚を売り上げる大ヒットとなり、その後、当初はなかったセリフが入った新バージョンや擬似ステレオ化されたバージョンなども発売され、累計売り上げは100万枚を超える。団塊世代を中心に、多くの人の心に残る名曲。多くの有名歌手にカバーされており、最近では、氷川きよし、三山ひろし、福田こうへい、三丘翔太、一条貫太らも自身のCDに収録している。

 日本航空の現社長の赤坂さんが(とくに知り合いではありませんが…)、「昔は、たとえば札幌から東京に行くには、汽車、青函連絡船、汽車と乗り継がねばならず、とんでもなく時間がかかった…」というようなことを機内誌に書いていました。
 井沢八郎「あゝ上野駅」が発売された昭和39年(1964年)当時、青森ー上野間ですら、寝台特急「はくつる」でも12時間近く、急行「八甲田」なら14時間近くかかっていました。今では、新青森から東京まで新幹線で約3時間、新千歳から羽田まで飛行機でたったの90分。神奈川県の小田原から東京へ通勤するよりも早かったりして、東京の青梅から丸の内に通うのと同じくらいの時間です。
 昔は、「遠くなればなるほど、時間がかかる…」という極めてシンプルな図式でしたが、最近では、時間と距離が比例しなくなってきています…。
 もちろん、クーラーのない時代に戻って汗をかきたいとは思いませんし、丸1日かけて東京から札幌まで移動したいとも思いません…。しかし、一見、今なら無駄とも思えるその恐ろしく長く退屈な移動時間の中にも、大切な何かがあったように思えます…。決して無駄ではない時間…、逆に、今では味わえなくなった「ゆったりとした時間」があり、その間、いろんなことを思い、考え、そこには、様々な感情がありました。

 中学卒業者を乗せた集団就職列車の第一号が、青森から東京へ向かったのは昭和29年(1954年)。その後、高度経済成長と時を同じくし、昭和35年から45年あたりまでをピークに、集団就職列車は昭和50年(1975年)まで続きました。高校進学率が50%だった昭和29年当時、高卒初任給の月額平均が約11,000円、大卒で約17,000円という中、「金の卵」と呼ばれたその多くは、京浜地帯の大工場や、中小零細企業、町工場や商店などでの住込みで、月給も3〜4千円という安月給。新聞には「都会に馴染めずに脱落…」などという記事も少なくありませんでした、
 そういう集団就職経験者を始め、昭和30年代から昭和40年代にかけて、戦後の日本の高度経済成長時代を作った、いわゆる団塊世代と呼ばれる人々、今の60代〜70代の人たちの心に刻まれた歌が「あゝ上野駅」ではないでしょうか。「お店の仕事は辛いけど 胸にゃでっかい夢がある…」という歌詞に、どれだけ勇気づけられたことかと思います。

 発売された昭和39年(1964年)は、東海道新幹線が開業し、東京オリンピックがあった年。
 つまり、ワンちゃんがホームランを55本打ち、「かっぱえびせん」「ハイニッカ」「Vロート」「デンターライオン」「花王スターチ」などが発売され、「平凡パンチ」が創刊となり、「柔」「明日があるさ」「皆の衆」「学生時代」「愛と死をみつめて」「何も云わないで」「涙を抱いた渡り鳥」「お座敷小唄」「ウナ・セラ・ディ東京」「東京ブルース」などが街には流れ、西郷輝彦、大月みやこらがデビューし、今も続くフジテレビ「ミュージック・フェア」が始まった…そんな年でした。

 当時、上野と同じく東京の玄関口で終着駅だった、東海道線の「東京駅」、中央線の「新宿駅」に降り立った人たちにも、この「あゝ上野駅」は、同じように心に響いたことでしょう。実際、この曲を歌った井沢八郎も、昭和32年、20歳の時、親に内緒で売った米俵で東京への旅費を工面し、青森県の弘前から上京したそうです。同じく東北の岩手県から上京した石川啄木の「ふるさとの 訛なつかし停車場の 人ごみの中に そを聴きにいく」を思い起こさせる2番の歌詞、「配達帰りの自転車を とめて聞いてる 国なまり…」も泣けます。

 ちなみに、23歳でこの詞を書いた関口義明は、東北とは何の関係もない埼玉県羽生市の出身というから大したもんです。「父ちゃん、僕がいなくなったんで…」で始まる今では有名になった間奏のセリフは、後から、井沢八郎自身が考えて付け加えたものです。なので、1964年(昭和39年)発売当初の「あゝ上野駅(B面「艶歌一代」)には入っておらず、1968年発売のベスト・カップル・シリーズ「ああ上野駅(B面「北海の満月」)から収録されています。
 さらに、この曲を担当し、最初に世に送り出した東芝のディレクターも大したものです。昭和8年生まれ、学習院大学時代は天皇と同級生だったそうですが、たしかな時代を捉える目を持っていたということになります。

 上野駅の駅前には(場所はパッとしませんが)「あゝ上野駅」の立派な歌碑があります。また、上野駅の16・17番線(朝・夕の常磐線特急等で使用されているホーム)の発車メロディーに「あゝ上野駅」が使用されていますし、15番ホームの入り口には、石川啄木の「ふるさとの 訛なつかし停車場の〜」の短歌のモニュメントもありますから、上野駅に行くついでがあれば、一度、見てくるのも良いのではないかと思います…。
 中学を卒業すると同時に親元を離れ、遠く見知らぬ都会で、戦後日本の復興期を背負った世代に、敬意を表します。ちなみに、アリスの「ベーやん」こと堀内孝雄さんも、三橋美智也とともに、この「ああ上野駅」を心に残る歌として挙げています…。

 ホラ、聴きたくなってきたでしょ…? 

(2019年10月 西山 寧)

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ウィキペディア 井沢八郎


1968年発売 ベスト・カップル・シリーズ「ああ上野駅 / 北海の満月」(セリフ入り)MEG-CD