第71回 デューク・エイセス「おさななじみ」(1963年) -MUSIC GUIDE ミュージックガイド

色あせない昭和の名曲
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週刊・連載コラム「なつ歌詞」

時代を思い出す扉が 歌であってくれればいい … (阿久悠)

第71回 デューク・エイセス「おさななじみ」(1963年)

愛のしるしの いとし子は
遠い昔の 君と僕 ……

デューク・エイセス「おさななじみ」

「おさななじみ」デューク・エイセス(DUKE ACES) (2:28″) Key= Eb
作詞:永六輔、作曲:中村八大、編曲:中村八大、演奏:東芝レコーディング・オーケストラ
B面「上を向いて歩こう」(作詞:永六輔、作曲・編曲:中村八大)
1963年(昭和38年)8月 発売 EP盤(赤盤) 7インチシングルレコード (45rpm、MONO) 
¥290 JP-1620(7H-1459) 東芝レコード / 東芝音楽工業
 
<再発シングル>
1965年4月「おさななじみ(2:28)/ 上を向いて歩こう」TR-1163 東芝レコード ¥330 *同音源
1968年4月「おさななじみ(2:29)/ 雪の降る町を」TP-1627 東芝レコード ¥400 *デュオソニック(擬似ステレオ)
1970年11月「おさななじみ(2:38)/ 続 おさななじみ」TP-2344 東芝レコード ¥400 *新録音、ステレオ

※ その後、アルバム収録のみの「1992 Re-Recording」バージョンがあります。


デューク・エイセス(DUKE ACES)
 1955年(昭和30年)に結成された、黒人霊歌、ジャズ、アメリカンポップスなどを歌う 男性4人組 コーラス・グループ。初代メンバーは、トップ・テナー:川上道夫、セカンド・テナー:和田昭治、バリトン:大屋剛人、バス:谷道夫。何度もメンバー交代やパート変更を行いながらも、2017年12月末の活動終了まで、62年間活動。レパートリーは 1700曲以上。NHK紅白歌合戦には 10回出場。
 1962年(昭和37年)、NHK「夢であいましょう」にレギュラー出演し、番組から生まれた「おさななじみ」がヒット。同年の 第13回 NHK紅白歌合戦に『ドライ・ボーンズ』で出場、同じく同年、ジャズ専門誌「スイングジャーナル」の年間人気投票でボーカルグループ部門第1位も獲得し、以降15年間連続首位。
 1966年から1970年にかけて、日本全国のご当地ソングを作る「にほんのうたシリーズ」をリリースし、『女ひとり』『筑波山麓合唱団』『いい湯だな』『フェニックス・ハネムーン』などがヒット。一方、『鉄人28号』などテレビ番組の主題歌や、NHK『みんなのうた』、『パンシロンの歌』などの CMソングなども数多く歌唱。
 「にほんのうたシリーズ」では「レコード大賞」特別賞・企画賞を受賞。また、文化庁芸術祭大衆部門優秀賞を これまで 3回受賞。1999年には「第41回日本レコード大賞」功労賞を受賞。
 2014年に、結成60周年記念シングル『生きるものの歌 / 友よさらば』、ベスト盤『感謝還暦』を発売。2017年12月21日に東京「メルパルクホール」でのラストライブをもって活動を終了。解散時のメンバーは、谷道夫、槇野義孝、大須賀ひでき、岩田元。


永六輔&中村八大の「六・八コンビ」による心に染みる傑作!
62年も活躍した デューク・エイセス の 見事な歌唱でヒット!
実は… 続編が 2つ「続おさななじみ」「おさななじみ〜その後」がある!


 歌詞を読んでも、とくにな〜んてことないのに、聴くと、なぜか心に沁みてきて、ミョ〜に感動する歌があります……。この『おさななじみ』も、そんな1曲。悲しい歌でもないのに、なぜか泣けてきたりします……。
 
 なんてことない歌詞でも(もちろん、それも計算されて書かれているのですが)、オケとメロディに乗せた心地よい歌声で聴かされると、理屈ではなく、直接、感情に訴えかけられるのです。まさに、それこそ、歌のマジックであり、歌の魅力でしょう……。
 
 どことなく童謡や唱歌のような、さわやかで弾むようなメロディ、そして、幼稚園から結婚、子供ができるまでを歌った 10番まであるストーリー仕立ての歌詞……。もちろん、歌詞もメロディも良くできた作品ですが、やっぱり、あの「デューク・エイセス」のスイングした見事な歌唱があったからヒットしたのでしょう。
 
 いわゆる「バーバーショップ・スタイル」と言われる 4人組 コーラス・グループ「デューク・エイセス」は、1955年(昭和30年)8月に結成されました。

 初代メンバーは、トップ・テナー:川上道夫、セカンド・テナー:和田昭治、バリトン:大屋剛人、バス:谷道夫 で、最初のころは、おもに、黒人霊歌、ジャズ、アメリカンポップスなど、英語の歌を歌っていました。
 
 ちなみに、初代リーダーだった和田昭治は、1960年の脱退後、作曲家として数々のCMソングを残すとともに、NHK『ステージ101』の歌唱指導など、ボーカルトレーナーとして活躍。1970年代〜80年代の数多くの有名歌手を指導したことでも知られています……。
 
 「デューク・エイセス」は、結成以来、何度かメンバーチェンジやパート変更が行われながらも、62年間にわたって活動し、最後まで変わらないパフォーマンスで、2017年12月31日をもって活動を終了しました。
 
 結成当時からのメンバーで、2代目 リーダーの 谷 道夫(最初はバス、その後、バリトン)は、解散時、83歳でしたから、まあ仕方ないのですが……、それでも、解散まで、谷 道夫 も 1958年から参加した バリトンの 槇野 義孝 も、実にイイ声を聴かせてくれていました……。
 
 なんでも、解散を決めた理由は、プロとしての矜持を感じてとのこと……。朝日新聞の取材で、リーダーの谷は、「まだ声は衰えていないし、キーも下がっていないけれど、この先、お客さんから “デュークも落ちたねえ” と言われるのは避けたい。生き残りや引き延ばしはしたくない。潔く解散します」(朝日新聞 2017年5月25日)と言っています……。引き際も見事です。
 
 1960年代、当時、同じく 4人組のコーラス・グループで、「デューク・エイセス」の他にも、1951年(昭和26年)に、慶應義塾大学の男声合唱団ワグネルソサエティのメンバーで結成された「ダークダックス」、1958年(昭和33年)に、早稲田大学のグリークラブに所属していたメンバーで結成された「ボニー・ジャックス」がいました。昭和の「3大コーラスグループ」などと言われ、3組でコンサートをやったりもしていましたね〜。
 
 1951年に結成、戦後のコーラスブームのパイオニアとも言える「ダークダックス」は、ロシア民謡や日本の叙情歌などが有名で、柔らかく上品な印象です。『ともしび』『カチューシャ』『トロイカ』『雪山讃歌』『山男の歌』『銀色の道』『北上夜曲』なんかが有名ですね〜。なんとなく、山の歌が多い気がしてました……。ダークは、一度もメンバー交代をしたことがないグループで、パクさん(高見澤 宏)、マンガさん(佐々木 行)、ゲタさん(喜早 哲)らが亡くなった後も、バスのゾウさん(遠山 一)は、90歳を越えた現在も「ダークダックスのゾウさん」として活動しています。
 
 一方、1958年に結成され、「歌の伝道師」などとも言われた「ボニー・ジャックス」は、なんと言っても、ロシア民謡の『一週間』が有名ですが、『ちいさい秋みつけた』とか『手のひらを太陽に』など、童謡のイメージが強いです。特徴的なのは、4人の立ち位置が、デュークやダークとは全く逆で、向かって左の方が低音パートになっています。今年、2021年8月にトップ・テナーの「六さん」こと 西脇 久夫 が亡くなりましたが、3人で「ボニー・ジャックス」として活動を継続中。
 
 で、この「3大コーラスグループ」の中でも、「デューク・エイセス」は、もともと ジャズ や 黒人霊歌、アメリカンポップスなんかを歌っていただけあって、技術的に最も高度なことをやっていました。にも関わらず、歌謡曲も歌うという、最も庶民的なイメージで、ポップな感じがしたもんです……。
 
 実際、結成時から歌っていた『ドライ・ボーンズ』や『ミスター・ベースマン』なんかでは、ホントに見事なハーモニーとリズムを聴かせてくれたかと思えば、この『おさななじみ』や、『いい湯だな』『女ひとり』『筑波山麓合唱団』などの歌謡曲、さらには、アニメ『鉄人28号』のテーマソングや(コレも歌声に感動します……)、「♪と〜れとれ ピ〜チピチ カニ料理〜」の『かに道楽』のコマーシャルソングなどなど、とにかく、明るくポップなイメージでした。
 
 で、なんと言っても、「デューク・エイセス」の醍醐味はライブ・パフォーマンスです。デュークがスゴイのは、メンバーが変わっても、変わらない心地よい歌とハーモニーを聴かせてくれていたこと……。トップ・テナーの 谷口安正、飯野知彦 の亡き後の 大須賀ひでき、セカンド・テナーの 吉田一彦 が引退した後の 岩田 元 の入った デューク も、最後まで良かったですね〜。もちろん、「小保方さんがいい〜」とか「谷口さんが好き〜」とか言う御仁もいらっしゃるかと思いますが……。
 
 ちなみに、「♪ひか〜る〜 ひかる東芝〜」で知られる『光る東芝の歌』を歌っていたのは、初代がダークダックスで、2代目が「デューク・エイセス」だったりします。
 
 さて、この『おさななじみ』ですが、もともと、NHK の音楽バラエティ番組『夢であいましょう』のために作られました。『夢であいましょう』は、1961年(昭和36年)4月から 1966年(昭和41年)4月まで、毎週 土曜日の夜10時に生放送されていた人気番組で、この番組の構成作家でもあった 永六輔(作詞)と、番組の音楽を担当していた 中村八大(作曲)のコンビで、毎月、番組で「今月のうた」というのが作られていました。
 
 その「今月のうた」からは、1961年10月〜11月に放送された『上を向いて歩こう』(坂本九)、1962年5月に放送された『遠くへ行きたい』(ジェリー藤尾)、1963年7月に放送された『こんにちは赤ちゃん』(梓みちよ)、同年10月に放送された『ウエディング・ドレス』(九重佑三子)など、ヒット曲がたくさん生まれました。
 
 ちなみに、中村八大 と 永六輔 は、ともに早稲田大学出身で「六・八コンビ」と言われ、『上を向いて歩こう』など坂本九のヒット曲も書いていたことから、「六・八・九トリオ」とも言われたりしていました。
 
 で、『おさななじみ』は、1963年(昭和38年)5月の「今月のうた」として放送され、8月に、シングルレコードとして発売。「デューク・エイセス」は、その前年、1962年(昭和37年)から「NHK 紅白歌合戦」にも出場(歌唱曲は『ドライ・ボーンズ』)していましたが、『おさななじみ』は、初めて「日本語で歌った歌謡曲」としてのヒットとなりました。
 
 なにしろ、ワンコーラスがたった 8小節ですが、歌詞は、10番まであります……、それでも、たった 2分半ですけど……。で、なんと言っても、「デューク・エイセス」の歌唱が見事です。童謡や唱歌のような雰囲気のメロディーのように感じますが、実は、16分音符でシンコペーションしてハネるリズムになっていて、プロの歌手でも 16分をキチンと歌えないヒトだと、こうは歌えません。だから、童謡や唱歌にはならず、ポップなのです。デュークは、アメリカンポップス仕込みのリズム感で、実にうまくスイングしていて、心地よく聴けます。
 
 もちろん、4声のハーモニーも心地よいのですが、この歌、3番〜5番はソロで歌われています。それぞれのパートごとに、一番イイ声で聴かせられるように自然な転調をしながら、「トップ・テナー 小保方」→「バス 槙野」→「バリトン 谷」→「セカンド・テナー 吉田」というふうに歌っているのですが、これがまた、単純な 8小節 パターンの繰り返しの中で、退屈させないイイ演出になっています。とくに、トップ・テナーから、いきなりバスにいくトコがいいんですね〜。
 
 『おさななじみ』の作曲の 中村 八大 は、もともとジャズ・ピアニストで、作曲家としては、1959年(昭和34年)に発売された水原弘のデビューシングル『黒い花びら』(作詞:永 六輔)をヒットさせています。ちなみに、この曲、それまで洋楽しか出していなかった「東芝レコード」(現・ユニバーサル ミュージック)が手がけた最初の邦楽レコードで、水原弘は、この曲で、この年から始まった「第1回 日本レコード大賞」の大賞を受賞しています。
 
 で、永 六輔 にとっても、中村 八大 から頼まれて書いた この『黒い花びら』が、作詞家としてのデビュー作であり、それが、いきなり大ヒットになったワケですから、たいしたもんです……。
 
 中村 八大 は、その後、さっきも書いた『夢であいましょう』で 永 六輔 と一緒に作った『上を向いて歩こう』(作詞:永 六輔)など名曲の数々に加え、坂本九『明日があるさ』(作詞:青島幸男)、NHK『ステージ101』から生まれた『涙をこえて』(作詞:かぜ耕士)、三波春夫『世界の国からこんにちは』(作詞:島田陽子)などで知られる作曲家です。
 
 中村 八大 が書いたメロディは、日本人の心の琴線に触れるようなメロディながら、どこか洋楽的なリズムで出来ていて、だから、『上を向いて歩こう』は、米国でも『SUKIYAKI』としてヒットしたりもしたのではないでしょうか……。
 
さて、この『おさななじみ』の 10番まである歌詞ですが、幼稚園のおさななじみが、最終的に結婚して子供が産まれるまでに至るシーンを、限られた言葉数の中で、ユーモラスに、かつ、実にうまく構成されています。「ゴール・イン」「ラブ・レター」「アベック」「プロポーズ」など、外来語のカタカナが多く使われているところも、このリズミックなメロディによく合っています。
 
 日本で、実験放送からテレビに関わり、多くのヒット番組の作・構成をしてきた 永 六輔 ……、いわゆる、今で言う「放送作家」のパイオニアだけあって、そのへんの言葉選びの感覚と、無駄のない構成は、ホントに見事です。
 
 というように、『おさななじみ』は、永 六輔 と 中村 八大 の「六八コンビ」によるヒット曲のひとつですが、その後、永 六輔 は、作曲家の いずみたく と ともに「デューク・エイセス」の『にほんのうた』シリーズを作りました。
 
 デュークの『にほんのうた』シリーズは、1965年から1969年にかけて、日本全国各地、47都道府県のご当地ソングを作るというコンセプトのもと、作詞の 永 六輔 と、作曲 いずみたく の二人が、実際に各都道府県を旅して制作し「デューク・エイセス」が歌うという企画。47都道府県にちなんで全52曲が作られ(北海道が3曲、東京都、大阪府、沖縄県がそれぞれ 2曲ずつあるため全52曲)、それぞれ両A面シングルとして、1965年から1970年にかけて発売されました。
 
 なかなか壮大な計画で、しかも、それを成し遂げているところがスゴイですね〜。で、この中から、茨城県の『筑波山麓合唱団』、京都府の『女ひとり』、群馬県の『いい湯だな』、宮崎県の『フェニックス・ハネムーン』など、ヒット曲も出ました。そして、これらのヒットが、いわゆる演歌・歌謡曲の世界での「ご当地ソング」ブームにつながっていったとも言われています……。
 
 余談ですが……、その後も、この『日本のうた』シリーズと同じような企画がありました……。1998年 から NHK の BS-2 で放送された番組『おーい、ニッポン』の中で、「あなたが歌う県のうた」として、47都道府県の歌が、秋元康のプロデュースで作られました。作詞は、もちろん 秋元康 で、後藤次利が作曲を担当。2003年までに、47都道府県、全49曲が作られましたが、その都道府県の一般参加者の中からオーディションを行い、最終選出された参加者がその県の歌を歌うというプロジェクトだったため、残念ながら、とくに有名になった歌はありません……。
 
 で、本家の『にほんのうた』シリーズのを作曲した いずみたく は、もともと、1960年に 永 六輔 とともに制作したミュージカル『見上げてごらん夜の星を』のために作った同名主題歌(作詞:永六輔)を、1963年に 坂本九がカバーしてヒット。第5回 日本レコード大賞の作曲賞を受賞したことで、一躍有名に……。
 
 『にほんのうた』シリーズの他にも、由紀さおり『夜明けのスキャット』(作詞:山上路夫)、岸洋子『夜明けのうた』(作詞:岩谷時子)や『希望(作詞:藤田敏雄)』、佐良直美『世界は二人のために』(作詞:山上路夫)や『いいじゃないの幸せならば』(作詞:岩谷時子)、ピンキーとキラーズ『恋の季節』(作詞:岩谷時子)、青い三角定規『太陽がくれた季節』(作詞:山川啓介)……などなどを書いたヒト。

 ほかにも、『ゲゲゲの鬼太郎』(作詞:水木しげる)の主題歌とか、「♪マーブル マーブル マーブル マーブル マーブルチョコレ〜ト」の『明治マーブルチョコレート』(作詞:山上路夫)や、「♪阪神〜 阪神〜 大阪 梅田 一番地〜」と 由紀さおりが歌ってた『阪神百貨店の歌』(作詞:野坂昭如)などの CMソングも書いてます……、関西のヒト以外は知らないと思いますケド……。
 
 ハナシを『おさななじみ』に戻します……。この曲がヒットしてしばらくは、おさななじみ同志の結婚式では、必ず、友人たちがこの歌を歌っていたものです……。
 
 そして、実は、この『おさななじみ』には、続編が 2作あるのです。
 
 ひとつは、1970年(昭和45年)に、再発売されたシングル『おさななじみ』(新録音)のカップリングで、『続・おさななじみ』。

 もう1曲は、ずっと後で、2010年に発売されたアルバム『デューク・エイセス 55周年 記念盤』に収録された『おさななじみ〜その後』。
 
 『続・おさななじみ』では、『おさななじみ』に歌詞を追加したように、続きのハナシが書かれています。幼稚園だった子供が成長していく姿が描かれているのですが、まあ〜これがダメダメな子供で、大学に入ってサラリーマンになって結婚して、しまいには、浮気までしてしまいます。まあ、1970年という背景もあって、安保や公害なんかも登場して、かなりシニカルな内容のモノ。「青いレモンの味」が「苦いレモンの味」になってます……。コレも10コーラスあります。
 
 で、2010年の『おさななじみ〜その後』の方は、『続・おさななじみ』の続きのハナシではなく、最初のオリジナルの『おさななじみ』の「その後」が描かれています。孫ができて、忘れっぽくなって、バスは無料パス……、「平均寿命も無事通過」となります……。
 
 で、実は、オリジナルというか、最初の1963年盤の『おさななじみ』は、10番まで歌詞があるのですが、その後の再レコーディングされたバージョンでは、9番までしか歌われていないものがあったりします……。オリジナルの『おさななじみ』という曲は、最後の 10番が1番に対するオチになっていて、そこが一番いいところで、ライブでもそこが最後に感動させられるところなのにも関わらず……。
 
 1970年に『続・おさななじみ』が作られた時、『おさななじみ』(新録音、ステレオ)とのカップリングで発売されているのですが、このバージョンが 9番までしかないのです。
 
 理由は、このシングル・レコードの歌詞カードを見るとわかります。「註)A面・B面を続けてお聞き下さい」と書かれており、A面の『おさななじみ』が 1番〜9番、B面の『続・おさななじみ』の歌詞の表記が、10番〜19番となっているためです……。

 つまり、A面の『おさななじみ』と B面の『続・おさななじみ』をセットで考えていたから、『続・おさななじみ』につながるように、『おさななじみ』単体でのオチとなる 10番をカットしたというワケです。
 
 しか〜し、最初の1963年盤がモノラル録音で、この 9番までしかない1970年盤がステレオ録音だっったため、コッチの音の方がスタンダ〜ドだと思っているヒトも少なくないようです……。
 
 この 2つのバージョンは、アレンジもテンポも違っていて、1963年盤のオリジナルバージョンは、2小節だけの短いストリングスのイントロですが、一方、1970年盤には、4小節のトランペットが入ったイントロで、テンポもゆったりめです。実際、コンサートで歌われる時のイントロやテンポ感は、1970年盤の方だったこともあって、そっちの方が一般的にはよく知られているようです……(コンサートやテレビでは、もちろん、ちゃんと 10番の歌詞まで歌っています)。
 
 この最初の1963年盤の録音メンバーは、トップ・テナー:小保方 淳、セカンド・テナー:吉田 一彦、バリトン:谷 道夫 、バス:槙野 義孝 で、1970年盤では、トップ・テナーが 谷口安正 に代わっています。

 さらに、そのずっと後、1992年にも、トップ・テナー:飯野知彦、セカンド・テナー、吉田一彦、バリトン:谷道夫、バス:槙野義孝 というメンバーで、アルバムのために再レコーディングされたりもしています……。

 つまり、『おさななじみ』には、1963年の小保方盤(JP-1620)、1970年の谷口盤(TP-2344)、1992年の飯野盤の 3つのバージョンが存在するのです。
 
 ちなみに、『おさななじみ』は、1965年(TR-1163)と 1968年(TP-1627)にも、シングル・レコードとして発売されていますが、これらの音源は、1963年の最初のものと同じです。
 
 さて、2017年12月21日、メルパルクホール東京で行われた『デューク・エイセス さよならコンサート 〜ありがとう、62年に感謝〜』の公演を最後に、2017年の末で惜しくも活動を終了した「デューク・エイセス」ですが、おそらく、最後のスタジオ録音となったのが、2014年10月22日に発売された 結成60周年記念の両A面シングル『生きるものの歌 / 友よさらば』(ユニバーサル UPCH-80460)です。
 
 トップ・テナー:大須賀ひでき、セカンド・テナー:吉田一彦、バリトン:谷道夫、バス:槙野義孝 というメンバーで録音されたこの 2曲は、まさに、最後のシングルにふさわしい感動的な 2曲です。
 
 『友よさらば』は、平井堅 や CHEMISTRY をプロデュースしてヒットさせた 松尾 潔 の書き下ろし曲ですが(作詞・作曲:松尾潔)、『生きるものの歌』は「六・八コンビ」(作詞:永 六輔、作曲:中村八大)の作品です。
 
 『生きるものの歌』は、もともと、1974年に、シングル『生きているということは』(東芝 TP-20012)で歌手デビューした 永 六輔 が歌っていたもので、同年、1974年8月に発売されたアルバム『六輔その世界 生きているということは』(東芝 TP-85016)の収録曲でした。その翌年、1975年4月〜半年間、NHK総合テレビの『世界史漫遊』という歴史バラエティ番組の挿入歌として使われ、シングル・レコード(東芝 TP-20132)としても発売されました。
 
 その後、デューク・エイセスをはじめ、加山雄三らもコンサートで歌うようになり、2016年には、さだまさし が アルバム『永縁 〜さだまさし 永六輔を歌う〜』の中で『おさななじみ』とともにカバーしていたり、もと「フォー・セインツ」の 上原 徹 も カバーして、2019年に配信リリースしたりもしています……。
 
 2014年の「デューク・エイセス」の最後の録音では、『生きるものの歌』に 永 六輔 がセリフで参加していますが、その約2年後の2016年7月に、永 六輔 は亡くなっています。「デューク・エイセス」のリーダー 谷 道夫 が、2017年末をもっての活動終了を考えたのも、永 六輔 の死去が、きっかけのひとつとなったのかもしれません……。
 
 さて、続編はさておき、最初の『おさななじみ』は、なぜ、こんなに歌詞がワタシたちの心に響くのでしょう……。
 
 人というものは、パンと水だけで生きてるわけではなく、人とのつながりの中で、生かされている存在です。つまり、「オレは、ひとりでも生きていける!」などとイキがってみても、何人たりとも、ひとりで生きることは出来ず、必ず、誰かとのつながりの中で生かされています……。
 
 去年から今年、2020年から2021年にかけて、こんなことになるとは、だ〜れも予想できなかった 新型コロナ・ウィルスの登場で、やれ「外出するな」とか「帰省するな」とか「リモ〜トワ〜ク」とか「リモ〜ト授業」だとかで、ど〜も、そういう人と人とのふれあいが少なくなってしまっていて、ちょっとアブナイ気もしています……。だって、「できるだけ、人と接触するな」ってコトですもの……。
 
 もちろん、コロナは、落ち着いてきていますし、そのうち、もしかしたら、インフルエンザくらいのものになるのかもしれませんが、学校やオフィスは、コロナ以前と同じように戻るのかどうかは疑問です……。
 
 だいたい、仕事でも、大事なことは雑談の中とか、顔を合わせるからこそ生まれる何気ない会話の中から生まれたりするもんですし、恋人や夫婦でも、何気ない会話の中で、お互いの価値観の違いを感じたりするもんです……。
 
 カオとカオを合わせるからこそ、言外に感じ取れることもあって、それが「コミュニケーション」というものではないでしょうか……。
 
 シンガーソングライター KAN が、去年、コロナ禍の2020年に発売したアルバムに収録されている、『君のマスクをはずしたい』というよくできた歌にもありますが、たとえば、2020年に学校に入学したヒトや、会社に入社したヒトは、もしかしたら、マスクをはずしたカオを見ていなくて、アノ子がかわいいのか、アノ男子がイケメンなのかすら、わからないかもしれないのです……。
 
 そんなコトはともかく……、

 『おさななじみ』は、そういう「人とのつながり」みたいなものを、あの素晴らしいデュークの歌声で、本能的に感じさせられる歌詞だから、心に沁みてくるのではないでしょうか……。

 歌詞というものは、それを書いた作詞家の生き方そのものでもあります。そういうものまでも伝わってくる気がします……。


(2021年9月30日 西山 寧)



デューク・エイセス「おさなななじみ」歌詞を見る!

デューク・エイセス「続・おさなななじみ」歌詞を見る!

デューク・エイセス「おさななじみ…その後」歌詞を見る!


デューク・エイセス 歌詞一覧
作詞:永六輔 歌詞一覧
作曲:中村八大 歌詞一覧


収録CD『デューク・エイセス 55周年記念盤』(2010年)UNIVERSAL MUSIC

配信 mora


デューク・エイセス レコード会社 ユニバーサルミュージック
デューク・エイセス オフィシャルサイト


デューク・エイセス ウィキペディア




デューク・エイセス – 「生きるものの歌」(語り:永六輔)

デューク・エイセス – 友よさらば