第67回 三波春夫「大利根無情」(1959年) -MUSIC GUIDE ミュージックガイド

色あせない昭和の名曲
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時代を思い出す扉が 歌であってくれればいい … (阿久悠)

第67回 三波春夫「大利根無情」(1959年)

こころ みだれて
抜いた すすきを 奥歯で噛んだ ……
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三波春夫「大利根無情」

「大利根無情」三波春夫(3:28) Key= Am 片面「親分お世話になりました」
作詞:猪又良、作曲:長津義司、編曲:長津義司、演奏:テイチク・レコーディング・オーケストラ 
1959年(昭和34年)6月発売 SP盤 10インチレコード (78rpm、モノラル) ※ EP盤(NS-105)も同時発売。
流行歌 ¥300 C-4271 TEICHIKU / テイチクレコード(テイチク株式会社)

*1960年2月公開 松竹映画『大利根無情』主題歌

※ 1988年06月21日(1988年盤)のカップリングは『一本刀土俵入り』。
※ 1990年10月21日(1990年盤)のカップリングは『忠太郎月夜』。


三波 春夫(みなみ はるお)
1923年(大正12年)新潟県 長岡市 生まれ。家業は本屋。13歳で上京後、米屋・製麺所に奉公。その後、築地魚河岸で働き、16歳の時に日本浪曲学校に入学。少年浪曲家「南條文若」の名で初舞台を踏む。
1943年(昭和18年)、20歳の時に陸軍に召集され、満洲で終戦を迎える。終戦後、22歳からシベリア抑留生活を送った後、1949年(昭和24年)26歳で帰国。再び、浪曲師として活動した後、芸名を「三波春夫」にかえて、1957年(昭和32年)6月『メノコ船頭さん』でテイチクレコードからデビュー。2枚目の『チャンチキおけさ/船方さんよ』が大ヒットとなる。
その後、『雪の渡り鳥』『チャンチキおけさ』『世界の国からこんにちは』『東京五輪音頭』『船方さんよ』『沓掛時次郎(くつかけときじろう)』『佐渡の恋唄』『元禄名槍譜 俵星玄蕃』『大利根無情』『一本刀土俵入り』『おまんた囃子』などのヒットで、国民的歌手となる。
NHK 紅白歌合戦には、通算31回亜出場。1986年に紫綬褒章、1994年には勲四等旭日小綬章。
2001年4月14日逝去。


日本独自のスタイル「セリフ入り歌謡浪曲」が
広く知られるようになった、最初の国民的ヒット曲!
義理と人情、浪花節…、日本人が持つネイティブな郷愁を感じさせる歌!
三波春夫が、和服で歌った最初の男性流行歌歌手!


 今回の歌も、コレを読んでいる多くの方にとっては、知った時には すでにナツメロだったのではないでしょうか……。
 なにしろ、今や、新聞に代わって、政治にも大きな影響を及ぼすようなスクープを連発している「週刊文春」が創刊された 1959年(昭和34年)に発売された曲ですから。

 この頃は、ちょうど、SP盤からEP盤への移行期で、この『大利根無情』も、10インチのSP盤と、7インチのEP盤が一緒に発売されていました。ご存知のように、ジャケット写真が登場したのは EP盤になってからなので、上の写真は、もちろん SP盤のレーベル面です。

 さて、この『大利根無情』……、若い頃にはなんとも思っていなかったものが、歳を重ねることによって、とても重要なものになってきたりするのと同じように、ある一定の年齢以上になってから、この曲の本当の素晴らしさを感じるようになったのではないでしょうか……。

 歳をとるということは、それだけ厚みが出るという、素晴らしいことです……、アチコチ痛くなることを除けば。

 『あざみの歌』『湯町エレジー』『青い山脈』……なんかと同じように、とにかく、まず、日本人の心の琴線に触れるメロディラインだけで泣かされる曲です。

 「平手造酒(ひらてみき)」が、いったい何なのかを知らなかったころですら、「♪利根の川風〜 よしき〜り〜の〜」のメロディに、「あ〜 いい歌だなぁ〜」と思った記憶があります……。英語がわからなくても、洋楽の曲が好きになったりするのと同じカンジですかね……。

 加えて、歌われている内容は、義理と人情、浪花節……、日本人が感じるネイティブな郷愁を感じさせ、細かいことはわからなくても、「行かねばならぬのだ〜」が、心の奥底に刺さります。

 三波春夫の凛とした明るく響く歌声に、情感たっぷりの台詞(セリフ)で、聴いた後には、静かな感動が残ります……。

 とくに、「行かねばならぬのだ〜」のあと、3コーラス目の冒頭「♪まぶた ぬ〜らし〜て 大利根の〜」で鳥肌が立ちます……。

 もともと、「浪曲」は「浪花節」とも呼ばれたように、義理と人情の世界が描かれているものが「歌謡浪曲」です。そして、その浪花節の物語を、もともと浪曲で言う「節(ふし)」という歌の部分と、「啖呵(たんか)」という台詞の部分で構成され、三味線ではなく、洋楽器で演奏されたものが「歌謡浪曲」。

 この台詞の入ったドラマ仕立ての歌謡曲、歌謡曲と浪曲をミックスした、いわゆる「歌謡浪曲」というスタイルは、世界に誇れる日本独自の文化だと思うのです。
 だって、こんな 1曲の中で、ひとつの物語をドラマ仕立てで歌と台詞で描くなんてのは、ワタシは他に知りません……。

 もちろん、ヨーロッパには、似たようなモノに「オペラ」というものが古くからありますが、世俗的な内容を描いていても、「大衆芸能ではない」のと、やっぱり歌が中心で、しかも歌劇とも呼ばれるように、「歌を組み合わせた劇」という点で、ゼンゼン違います。その現代版とも言えるミュージカルもしかり。

 さて、「歌謡浪曲」のルーツはと言えば、ともに浪曲師であった三波春夫や村田英雄が、伴奏を洋楽器にして、かつ、より歌うことに重きをおいたスタイルとして、1957年(昭和32年)ころから歌い始めたということらしいです。

 で、同じく浪曲師だった二葉百合子のレコードデビュー曲『女国定』も、ちょうど 1957年(昭和32年)の発売ですから、やっぱり、このころに確立されたスタイルなのだと思われます。

 台詞はありませんが、1958年(昭和33年)7月に発売された、村田英雄のデビューシングル『無法松の一生 〜度胸千両入り〜』が、おそらく「歌謡浪曲」が広く知られるようになったハシリで、1959年(昭和34年)6月に発売された、この『大利根無情』がヒットしたことで、「台詞入り歌謡浪曲」が一般的に認知されたのではないでしょうか……。
 もっとも、三波春夫や二葉百合子以前にも、パイオニア的なヒトは他にもいたようですが……。

 ちなみに、浪曲ではありませんが、「台詞入り」という点から考えると、戦前、1937年(昭和12年)に発表された東海林太郎の『すみだ川』には、「ああ…そうだったわねぇ〜 あなたが はたち、わたしが十七の時よ……」で知られる台詞が入っています。ただ、女性の台詞といいうこともあって、語っているのは田中絹代。
 まあ、そういうものも、ひとつのルーツとしてあったのでしょう。

 で、「台詞入り歌謡浪曲」としては、ほかに、忠臣蔵が舞台の真山一郎『刃傷松の廊下』(1962年)、二葉百合子が1971年(昭和46年)に台詞を追加してカバーした『岸壁の母』(1971年)、三波春夫では、『一本刀土俵入り』(1960年)や、「せんせい! お〜 そば屋か〜!」で知られる、コレも忠臣蔵が舞台の『長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃』(1964年)、そして、長谷川伸が原作の『瞼の母』『沓掛時次郎(くつかけときじろう)』などが有名です。

 いずれも名曲……。忠臣蔵は、やっぱり心に響きますし、二葉百合子の『岸壁の母』は、何度聞いても泣けます。

 最近でも、二葉百合子の門下生、坂本冬美、藤あや子、石原詢子や島津亜矢らはもちろん、三波春夫を師と仰ぐ三山ひろし や、市川由紀乃、山内惠介、氷川きよし、福田こうへい、椎名佐千子……といった若い歌手たちも、こういう「台詞入り歌謡浪曲」を積極的に歌い継いでいることは、誠に喜ばしいことです。

 さて、このヤクザの用心棒に落ちぶれた伝説の剣豪「平手造酒(ひらてみき)」(本名は平田三亀)が主人公の『大利根無情』のお話、高木為鎮の『天保水滸伝』がもとになっています。

 江戸の千葉周作道場では剣客として将来を嘱望されていたのに、酒におぼれて破門となった平手造酒。北関東を放浪するうちに、天保15年(1844年)下総国(千葉県北部・茨城県南部)大利根河原での、笹川の繁蔵一家と飯岡の助五郎一家の縄張り争いで笹川方の助っ人として戦い、命を落としてしまいます……。ディテ〜ルに関しては、どこまでが真実かはわかりませんが……。

 ちなみに、平手造酒の墓が、千葉県香取郡、東庄(とうのしょう)町の延命寺にありますが、同じく、千葉県香取郡、郡神崎(こうざき)町の心光寺にもあったりします……。

 さらに、この曲のヒットを受け、発売の翌年に同名映画『大利根無情』(1960年2月12日公開)も製作されました。楽曲と同じく『天保水滸伝』をもとにしていて、平手造酒を三波春夫自身が演じています。

 で、このお話を、三波春夫の『大利根無情』として作詞したのは、猪又 良 というヒト。菅原都々子、舟木一夫、田代みどり、三橋美智也、田端義夫らにも詞を書いていますが、ほかに有名な作品としては、石原裕次郎の『口笛が聞こえる港町』『男の横丁』、そして、ちあきなおみ『新宿情話』があります。

 実は、三波春夫の『大利根無情』の前にも、同じテーマを歌った曲があります……。そうです、1939年(昭和14年)に、田端義夫が歌ってヒットした『大利根月夜』(作詞:藤田まさと)です。

 そして、その両方、『大利根無情』と『大利根月夜』を作曲したのが、長津 義司(ながつ よしじ)というヒト。『大利根月夜』は、長津義司の最初のヒット曲だったんですね〜。

 で、ほかにも、淡谷のり子『君忘れじのブルース』(昭和23年)、田端義夫『玄海ブルース』(昭和24年)や『ふるさとの燈台』(昭和28年)、そして、三波春夫としてのレコード歌手デビュー曲、1957年(昭和32年)に発売された『チャンチキおけさ』(作詞:門井八郎)を作曲しているヒトです。

 さらに、長津 義司は、1964年(昭和39年)に発売された、三波春夫の『長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃』も作曲しています。人気の台詞入り歌謡浪曲です。

 歌謡浪曲というのは、きっと、誰でも作曲できるものではなく、特殊な作曲能力が求められる分野だと思われますが、長津義司はというヒトは、きっと得意だったのですね……。

 ちなみに、この『長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃』、作詞者は北村桃児となっていますが、コレは、三波春夫のペンネームです。

 ちなみに、ちなみに、忠臣蔵の討ち入りが舞台となっていますが、俵星玄蕃というのは架空の人物で、忠臣蔵には出てきません……、だから、そば屋でもありません……。

 しかーし! そんなことは、どうだっていいのです……。歌は、エンタテインメントですから、楽しませてくれれば、感動させてくれれば、それでいいのです……。『長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃』も、間違いなく名作です。

 さて、ハナシを『大利根無情』に戻します……。

 歌っている三波春夫はと言えば、まさに、古川ロッパ(古川緑波)が言った名言「歌は語れ、セリフは歌え」の通りに、この『大利根無情』を歌い、語っているからこそ、伝わってくるのです。

 三波春夫というヒト自身は、ワタシたちがテレビで見ていたそのままに、楽屋などでも、いつもニコニコ明るく、誰にでもやさしかったそうです。

 そういう「天性の明るさ」みたいなものが、歌にもよくあらわれています。歌声は、明るい響きで、言葉がよく聞こえてくるだけでなく、哀しげな歌でも、くら〜くならずに聴かせることができたからこそ、逆に、その歌の持つ哀しさが心に響いてきます。

 あの有名な「お客様は神様です!」も、決してリップサービスなどではなく、心からそう思い、言っていたのでしょう。

 余談ですが、三波春夫は、日本初の「男性和服歌手」でもあります。

 それまで、男性の流行歌歌手と言えば、スーツかタキシードで歌うことが当たり前で、三波春夫も、1957年の歌手デビュー当時は、白いタキシードで歌っていました。ある時、レコード会社の反対を押し切って、浪曲師時代から慣れ親しんできた着物、紋付き袴姿で舞台に上がったところ、観客から大喝采を浴びたそうです……。なんと、そんなパイオニアでもあったんですね〜。

 ちなみに、楽屋に入る時や取材など、普段はいつもスーツ姿……、知的で、読書家だったこともあって、まるで、弁護士か大学教授のような雰囲気だったそうです……。

 ハナシを戻します……。

 三波春夫の歌謡浪曲のベースには、もちろん、自身が歌手になる前に浪曲師だったということがあります。

 1957年(昭和32年)、33歳の時に「三波春夫」として歌手デビューしたわけですが、浪曲師としては、そのずっと前、16歳の時に「南條文若」(なんじょう ふみわか)という名前で初舞台を踏んでいて、なんと、17歳で座長にもなります。

 しかし、1943年(昭和18年)、20歳の時に、陸軍に召集され満洲に出征します。幸運にも、生き延びることはできましたが、戦後は、22歳から26歳までシベリアで厳しい抑留生活を強いられました。
 そのシベリア抑留中に、歌謡浪曲のような新しい芸の形を考えていたとも言われています。それは、浪曲の大衆化、エンタテインメント化です。

 1949年(昭和24年)に帰国した後も、再び、浪曲師として活動しますが、ある時、民謡歌手から流行歌のレコード歌手に転身した、三橋美智也の『哀愁列車』を聴いて衝撃を受けたそうです。「民謡から流行歌に」ということを、自信の浪曲に置き換えて考えたのでしょう。

 さらに、巡業先で「浪曲以外に歌も歌ってくれ……」とリクエストされて歌ったところ、その反響のよさに自信を深めたというエピソードもあったようです……。

 そういうことの積み重ねがあって、三波春夫は浪曲の大衆化を目指し、「浪曲+歌謡曲」という、新しいエンターテイメントの形を目指したのではないでしょうか……。
 
 三波春夫は、広く大衆が楽しめるエンターテインメント、芸を目指したのです。のちに、「歌は大衆から生まれる」という言葉も残しています。

 ところで、ともに浪曲師から流行歌歌手になったことから、三波春夫は、1年後の1958年(昭和33年)にデビューした村田英雄と、良きライバルとされていました(浪曲師としては、村田英雄の方が、はるかに格が上だったようですが)。

 しかし、この二人には、対照的とも言えるほど、明白なスタイルの違いがあったからこそ、ともに、国民的な大スターとしていられたのでしょう。共通しているのは、ともに、日本人なら誰もが持っている義理人情を歌っていたことくらいで。

 つまり、三波春夫が、美声で、高音が特徴的だったのに対し、村田英雄は、耳に残る特徴的な歌声に、低音が魅力でした。

 三波春夫は繊細で技巧的な歌唱で、村田英雄はパワフルで豪快な歌いっぷりが特徴。三波春夫が、どちらかと言えばカラフルなエンターティメント性を追求したのに対し、村田英雄は、どちらかと言えば水墨画のようなモノクロの世界、泥くさい真っ直ぐな男の心情や魂を一貫して歌っていたように思います。

 それぞれの代表的な言葉、「お客様は神様です」「村田だ」にも現れています。

 さて、この『大利根無情』が発売された年、1959年(昭和34年)がどんな年だったかと言うと、シャルル・ド・ゴールがフランス初代大統領になり、アラスカとハワイが米国の49番目と50番目の州になり、シンガポールが独立し、昭和基地に置き去りにされたタロとジロの生存が確認されたという、そんな年でした。

 巨人の長嶋が、阪神の村山実投手からサヨナラホームランを打った天覧試合が行われたのも、『ヤン坊マー坊天気予報』が始まったのもこの年……。

 さらに、放送開始になったテレビ番組と言えば、『スター千一夜』『ザ・ヒットパレード』『おかあさんといっしょ』『頓馬天狗』『皇室アルバム』などなど。

 流行歌の世界では、ザ・ピーナッツ、坂本九、水原弘、松尾和子、守屋浩、ダニー飯田とパラダイス・キング、こまどり姉妹らがデビューした年で、12月15日に行われた「第1回 日本レコード大賞」では、水原弘の『黒い花びら』が選ばれました。
 ちなみに、米国「グラミー賞」も、この年が第1回。「最優秀レコード賞」「最優秀楽曲賞」は、いずれもドメニコ・モドゥーニョの『ボラーレ』だったり……。

 日本では、ほかに、村田英雄『人生劇場』、春日八郎『山の吊橋』、小林旭『ギターを持った渡り鳥』、島倉千代子『哀愁のからまつ林』、スリー・キャッツ『黄色いさくらんぼ』、フランク永井と松尾和子『東京ナイト・クラブ』、ペギー葉山『南国土佐を後にして』、松尾和子&和田弘とマヒナスターズ『誰よりも君を愛す』、松山恵子『お別れ公衆電話』、三橋美智也『古城』などがヒットしていました……。

 そして、この年、テイチクレコードでは、流行歌のレコード売上で年間1位が『大利根無情』、2位が『忠太郎月夜』、3位が『チャンチキ酒場』と、年間トップ3を三波春夫が独占しました。だから、テイチクにとっても、「お客様は神様」でした……。

 ところで、ラップの曲って、もしかしたら、現代の若者にとっての歌謡浪曲みたいなもんなんですかね……。

(2021年 3月 17日 西山 寧)


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三波春夫 歌詞一覧
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収録CD「三波春夫 大全集」テイチク

収録DVD「長編歌謡浪曲・台詞入り歌謡曲 ベスト映像集」テイチク

三波春夫「大利根無情」配信 mora


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