第61回 灰田勝彦「鈴懸の径」(1942年) -MUSIC GUIDE ミュージックガイド

色あせない昭和の名曲
便利でないことが、しあわせだった、あのころ …

週刊・連載コラム「なつ歌詞」

時代を思い出す扉が 歌であってくれればいい … (阿久悠)

第61回 灰田勝彦「鈴懸の径」(1942年)

友と語らん 鈴懸の径
通いなれたる 学舎(まなびや)の街
やさしの子鈴 葉かげに鳴れば
夢はかえるよ 鈴懸の径 ……

灰田勝彦「鈴懸の径」

「鈴懸の径」灰田勝彦(2:24)
作詞:佐伯孝夫、作曲:灰田晴彦(有紀彦)、演奏:灰田兄弟と南の楽団
1942年(昭和17年)9月発売 SP盤 10インチレコード (78rpm、モノラル)
愛唱歌 A-4352 VICTOR / 日本ビクター蓄音器株式会社

「鈴懸の径」灰田勝彦(2:56)
作詞:佐伯孝夫、作曲:灰田晴彦(有紀彦)、編曲:灰田晴彦(有紀彦)、演奏:灰田晴彦とニュー・モアナ
1947年(昭和22年)6月発売 SP盤 10インチレコード (78rpm、モノラル)
流行歌 V-40042(P-1145)/ 日本ビクター株式會社


 1911年、ハワイ・ホノルル生まれ。二つ年上の兄は作曲家で、スティールギター、ウクレレ奏者の灰田晴彦(後の有紀彦)。1923年(大正12年)11歳で来日。立教大学在学中から、兄が作ったハワイアン・バンド「モアナ・グリークラブ」に参加し演奏活動を行う。大学卒業と同時にビクター専属歌手となり、1936年(昭和11年)『ハワイのセレナーデ』で歌手デビュー。
 ハワイアンとともに流行歌を歌い、1940年(昭和15年)南旺(東宝)映画『秀子の応援団長』主題歌『燦めく星座』がヒットしたことで全国的な人気となり、その後、『鈴懸の径』をはじめ、『森の小径』『新雪』『加藤隼戦闘隊』『ラバウル海軍航空隊』『東京の屋根の下』『アルプスの牧場』『野球小僧』などのヒットで知られる。1982年(昭和57年)10月26日逝去。
 『鈴懸の径』のモデルとなった立教大学のキャンパス内には歌碑がある。


戦中に、灰田勝彦の歌で、
戦後には、鈴木章治のクラリネットでもヒット……
立教大学がモデルの、ワンコーラスしかない歌!


 以前に書いた『旅の夜風』と同じように、おそらく、コレを読んでいるほとんどの人にとって、この『鈴懸の径』(スズカケノミチ)は、出会った時からすでに「ナツメロ」だったハズ……。だって、78年も前の曲ですし、昭和40年代に、すでに NHK で「なつメロ」として紹介されてたりもしましたもの。
 戦時中、1942年(昭和17年)のヒット曲ですが、リアルタイムで経験しているわけではないので、当時、どれほどのヒットだったのかはわかりません……。

 ザ・ピーナッツや倍賞千恵子の歌で知った……、あるいは、鈴木章治とリズムエースによる、クラリネットのジャズ・インストの曲として最初に耳にした方も少なくないのではないでしょうか……。

 戦後、1954年ころから、ジャズ・クラリネット奏者の鈴木章治が、もともと3拍子だった『鈴懸の径』を、いわゆる 4ビートのジャズ(4拍子)にアレンジして演奏していました。で、オリジナルの発売から約15年後の1957年(昭和32年)、ベニー・グッドマン楽団のバンドリーダーだったアルト・サックス奏者のピーナッツ・ハッコーと鈴木章治が共演して演奏した『鈴懸の径』がリバイバル・ヒットしたからです。

 その後も、昭和40年代以降も、喫茶店とか商店街とかで、よく街で耳にしたもんです……。

 ちなみに、鈴木章治とリズムエースのバージョンは、曲名もそのまま『鈴懸の径』ですが、ピーナッツ・ハッコーも『Platanus Road(プラタナス・ロード)』という曲名で、米国でリリースしています。

 さらに、1964年には、ハワイ出身の日系二世で、作曲した灰田晴彦(有紀彦)とも親交のあったウクレレ奏者、オータサン(OHTA-SAN)こと ハーバート・イチロー・オータ(ハーブ・オータ)がカバーし、なぜか『SUSHI(スシ)』という曲名でシングル・レコードを発売(サーフサイド・レーベル)したところ、ハワイでもヒットしたそうです……。なぜ、スシ!
 当時、ハワイにいたわけではないので、どれほどのヒットかはわかりまぜんが……。

 なんでも……、前年、1963年に坂本九の『上を向いて歩こう』が、『スキヤキ』の曲名で日本人歌手として初めてビルボード誌の週間1位になったことで、曲名を『SUSHI(スシ)』にしたとか……。

 ちなみに、『SUSHI(スシ)』のカップリングも、灰田勝彦のヒット曲『森の小径』(1940年)でしたが、こっちの曲名は『BONSAI(ボンサイ)』でした……。

 う〜ん……、スキヤキ、スシ、ときたら、テンプラとかトーフとか来るのかと思ったら……。おそらく、米国人にとって、ボンサイは、発音しやすかったからではなかろうかと思われます……。

 さて、ご存知かと思いますが、「鈴懸(スズカケ)」とは「スズカケノキ」、葉っぱの大きな落葉樹「プラタナスの木」のことです。「スグカケノキ」という和名は、秋につける球形の果実が「鈴」に似ていることから「スズカケノキ(鈴掛木)」の名前が付けられたそうな。日本では、明治時代から街路樹として各地で植えられ、日比谷公園や新宿御苑で見られます。

 ちなみに、「鈴懸」が歌詞に出てくる有名な曲と言えば、菅原都々子『月がとっても青いから』(作詞:清水みのる)ですが、「プラタナス」が出てくる曲は、はしだのりひことシューベルツ『風』(作詞:北山修)、ザ・ランチャーズ『真冬の帰り道』(作詞:水島哲)、黒沢明とロス・プリモス 『たそがれの銀座』(作詞:古木花江)、敏いとうとハッピー&ブルーの『星降る街角』(作詞:日高仁)、アグネス・チャン(柏原芳恵)『ハロー・グッドバイ』(作詞:喜多條忠)、さだまさし『主人公』(作詞:さだまさし)、石川ひとみ『ミス・ファイン』(作詞:康珍化)など、いっぱいあります……。

 で、この『鈴懸の径』とは、歌った灰田勝彦の母校でもある、立教大学のキャンパス内の並木道がモデルで、灰田勝彦が亡くなった年、1982年に歌碑も建てられています。除幕式では、灰田勝彦の3歳年上で、同じく立教大学卒のディック・ミネが、泣きながらこの『鈴懸の径』を歌いました。

 ところで、立教と言えば、長嶋茂雄ですが……、東京六大学野球の応援で歌われる立教の第二応援歌『St.Paul’s will shine tonight』(通称:セントポールマーチ)は、勢いがあるのに、おしゃれです。それもそのハズ。もとはと言えば、アメリカ合衆国で応援歌として歌われていた『Our boys will shine tonight』が原曲ですもの……。

 最近、朝ドラで古関裕而がモデルになり、早稲田の第一応援歌『紺碧の空』をよく耳にしますが、その『紺碧の空』も、慶應の『若き血』も、立教の『St.Paul’s will shine tonight』も、いい曲です……。

 さてさて、この『鈴懸の径』、その後のいわゆる「カレッジ・フォーク」のルーツのようでもあり、青春歌謡でもあり、今となっては、叙情歌のようにも聴こえます。

 いずれにしろ、戦時中の昭和17年の曲にしては、モダンでおしゃれなメロディです。だからこそ、戦後、鈴木章治がカバーしたというコトなのでしょう……。
 加えて、どこか、日本人の心の琴線に触れるような、物悲しく、郷愁を誘うようなメロディラインの曲で、言葉が耳に残ります……。

 発売された、昭和17年9月と言えば、真珠湾攻撃から約 9ヶ月後。6月には、ミッドウェー海戦で惨敗したとは言え、大本営による情報操作で国民はすっかりダマされていたコトもあり、まだまだ、戦勝気分の中だったかもしれません……。

 その前、日中戦争のころから音楽も戦時ムードで、古関裕而が作曲し、伊藤久男が歌った『暁に祈る』などの戦時歌謡というか軍国歌謡が多く作られていましたが、一方、この『鈴懸の径』とか、同じく灰田勝彦の『新雪』、『湯島の白梅』(小畑実)、『高原の月』(霧島昇・二葉あき子)などといった歌も人気でした。そりゃあ、勇ましいばかりでは、人間生きていけません……。

 しかし、この頃から、急速に戦局が悪化してきて、昭和17年〜18年にかけてのガダルカナル島での戦い、昭和18年10月の学徒出陣という流れの中で、多くが横文字だったレコード会社も、敵国の文字はよろしくないということで、コロムビアは「ニッチク(日蓄)」、キングは「富士音盤」、ポリドールは「大東亜」、テイチクは「帝蓄」、ビクターは「日本音響」と社名が変わっていきました……。野球でいえば、「ストライク!」が「よしっ!」ってヤツですね。

 そんな中でも、こんなモダンな曲を作ることができたのは、灰田勝彦も、作曲した2つ年上の兄、灰田晴彦(有紀彦)もハワイ出身で(兄弟だから当たり前ですが)、ハワイアンのバンドをやっていたからではないでしょうか……。

 灰田兄弟は、明治政府の移民政策によって広島からハワイに移住した医者の息子として、ハワイで生まれハワイで育ちましたが、急逝した父の納骨のために、1922年(大正11年)、灰田勝彦が11歳の時に母とともに日本に一時帰国(来日?)。その後、関東大震災後のドサクサの中、盗難にあったことでハワイに戻ることができなくなってしまい、なんと、そのまま日本に住むことに……。

 1930年(昭和5年)に立教大学予科に進学した灰田勝彦は、在学中の1931年(昭和6年)から、兄・晴彦が作った日本初のハワイアン・バンド「モアナ・グリークラブ」に、ボーカルとウクレレで参加し、その後、バンドが人気となったことで、1936年(昭和11年)に歌手デビューしたというわけです……。

 そもそも、日本の現在のポップスとか歌謡曲のルーツは、戦後のジャズとハワイアンだとも言えます……。笠置シヅ子、美空ひばり、雪村いづみ、江利チエミ、ペギー葉山ら当時の流行歌も「ジャズ」と言われたりしていましたし、一方、大橋節夫とハニーアイランダース、バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ、ダニー飯田とパラダイス・ハーモニー(パラダイス・キング)、和田弘とマヒナ・スターズなどなど、ハワイアン・バンドや、ディック・ミネ、石原裕次郎らもハワイアンの曲や、今で言う歌謡曲を歌っていたりしました。

 つまり、灰田兄弟によるハワイアン・バンド「モアナ・グリークラブ」……、日本に初めてスチールギターの音色を伝えたこのバンドは、日本のハワイアンのパイオニアであり、日本の歌謡曲のルーツのひとつでもあるのです……。

 で、実は、もともと『鈴懸の径』は、レコードが出る前から「モアナ・グリークラブ」では演奏されていた人気の曲でした。しかし、その頃は、メンバーだった広瀬文雄というヒトが詞をつけた『マロニエの径』という曲で、失恋の歌詞でした。

 『マロニエの径』の評判がいいので、レコードを出すことになったワケですが、昭和17年になり、「モアナ・グリークラブ」というバンド名を「灰田兄弟と南の楽団」と改称せざるをえなかったようなご時世だったため、失恋の歌詞が検閲にひっかかると考え、作詞家の佐伯孝夫に作詞を依頼し、『鈴懸の径』というタイトルになりました……。

 佐伯孝夫は、早稲田の仏文科を出たあと新聞記者を経て、ビクターの専属作詞家になった、西條八十の門下生だったヒトです。

 『鈴懸の径』のほかにも、灰田勝彦の『燦めく星座』『野球小僧』や、作曲家の服部良一とのコンビによる『東京の屋根の下』(灰田勝彦)、『三味線ブギウギ』(市丸)、『銀座カンカン娘』(高峰秀子)、『桑港のチャイナタウン』(渡辺はま子)……などなど。
 さらに、『ミネソタの卵売り』(暁テル子)など、ちょっと考えられないような自由で斬新な発想で書かれた詞も多く、その幅の広さに驚かされます。なんてったって、『♪コッ コッ コッ コッ コケッコ〜』ですよ…。

 その後も、小畑実の『湯島の白梅』『高原の駅よ、さようなら』や、吉永小百合&和田弘とマヒナスターズの『寒い朝』、フランク永井の『有楽町で逢いましょう』『東京ナイト・クラブ』、橋幸夫&吉永小百合『いつでも夢を』や、『潮来笠』をはじめとする橋幸夫の『股旅もの』のほとんどを書いているスゴイ人です。
 わかりませんが、1千曲くらい書いたのではないでしょうか……。

 さて、佐伯孝夫によって書かれた、学生時代の生活を懐かしむような歌詞は、どこか、ちょっと、青山学院を舞台にしたペギー葉山の『学生時代』に似てたりします……。どっちも、プロテスタント系のミッションスクールですし、どっちも卒業生が歌ってて、どっちもキャンパス内に歌碑がありますから。

 でも、この『鈴懸の径』は、歌詞は1番しかありません……たった4行。上に引用してある4行で全てです……。
 曲としては、あとの2行を繰り返す、いわゆる「ワン・ハーフ」なので、現実的には 6行ですが、要素としては 4行だけです……。

 最近は、歌手がテレビで歌う場合、たとえば「3分以内」とか決められているため、本来は3番まである歌を、1番とリフレインだけの「ワン・ハーフ」のカットサイズで歌ったりするのが主流ですが、この『鈴懸の径』の場合、すでに「ワン・ハーフ」というワケです……。

 しかも、メロディも「A – A’- A’」という構成でしかなく、「A」の 16小節を3回繰り返して歌っているようなもんです……。
 「歌ネット」の歌詞ページを見てもわかるように、最近 J-POP に多い、スクロールしないとゼンブが見えないような歌詞とは大違い!

 歌詞は、長けりゃいいってもんじゃないんです……。昔のいい歌詞は、みんな、だいたいは、そんなに長くありません……。つまり、長々と書かなくても、ちゃ〜んと伝えられる技量を、一流の職業作詞家が持っていたのです……。

 ところで、灰田勝彦の『鈴懸の径』の音源は、1942年(昭和17年)に発売されたもの(A-4352)の他に、戦後、再録音されて1947年(昭和22年)に発売されたもの(V-40042)もあります(その後も、再録音されていますが)。空襲で焼失したためかどうかはわかりませんが、ビクターに原盤が残っていなかったため、戦後、再録音したというコトでしょう……。

 なので、これまで、CD化されていた音源も、長らく1947年版が使われていました。それが、なんと、70年後の2012年に、1942年のSPレコードを原盤としてCD化された音源を収録したベストアルバム『スター☆デラックス 灰田勝彦ホームラン全集』が発売されました。灰田勝彦の没後30年と、前年の2011年が灰田勝彦の生誕100年となったことを記念してのプロジェクトでした。

 当然のことながら、戦時中のレコードは、世の中にあまり残ってません。『鈴懸の径』も、オークション等で出てくるのも、それらのほとんどが、戦後の1947年盤です。

 そんな戦時中のレコードを、いい状態で大切に保管していたヒトがいたんですね……。

 ちなみに、アレンジや演奏、ボーカルの印象は変わりませんが、灰田勝彦の歌声が、5年の月日を感じさせます……。

(2020年12月09日 西山 寧)


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立教大学『鈴懸の径』

灰田勝彦 歌詞一覧
作詞:佐伯孝夫 歌詞一覧
作曲:灰田有紀彦(晴彦) 歌詞一覧
作曲:灰田晴彦(有紀彦) 歌詞一覧


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