島倉千代子「この世の花」
「この世の花」島倉千代子 (3:42) 片面「あゝ若き日よ、どこへゆく」(霧島昇・コロムビアローズ)
作詞:西條八十、作曲:万城目正、編曲:松尾健司、演奏:コロムビア・オーケストラ
制作担当:根村唯由
1955年(昭和30年)3月1日 発売 SP盤 レコード (78rpm、MONO) 流行歌
A-2229(1216073) Columbia / コロムビアレコード
松竹映画『この世の花』主題歌 (コピー文:島倉千代子入社第一回吹込!)
<7 インチ 再リリース盤>
「この世の花」島倉千代子 片面「おもいで花」島倉千代子(松竹映画「続、この世の花」主題歌)
1956年(昭和31年)12月10日 発売 EP盤 7インチ シングルレコード (45rpm、MONO) 流行歌
SA-16 Columbia / コロムビアレコード
1938年3月30日生まれ、東京出身の歌手、島倉千代子のデビュー曲で、1955年(昭和30年)3月公開の松竹映画「この世の花」の主題歌。前年「第5回コロムビア全国歌謡コンクール」で優勝し、コロムビアと専属契約。発売から半年で200万枚を売り上げたと言われ、デビュー曲にして自身最大のヒット曲。
「この世の花」と同時に、初レコーディング作「お花見どんたく」(共演:神楽坂はん子、青木光一、中島孝)も発売されているが、名前に誤植があったこともあり、「この世の花」がデビュー曲とされている。
その後も、「逢いたいなァあの人に」「東京だョおっ母さん」「思い出さん今日は」「からたち日記」「哀愁のからまつ林」「恋しているんだもん」「ほんきかしら」「愛のさざなみ」「鳳仙花」「人生いろいろ」とヒット曲多数。60年という長きに渡って活躍。生涯市販されたシングル作品は 503曲、レコーディングされた曲数は 2,000曲近いと言われている。1957年 発売のシングル「東京だョおっ母さん」で、NHK「紅白歌合戦」に初出場し、以後、35回出場。
2013年(平成25年)11月8日、75歳で死去。亡くなる わずか3日前に録音された「からたちの小径」は、翌月、12月18日に発売され最後のシングルとなった。カップリングには、デビュー曲の「この世の花」のオリジナル音源も収録されている。
『青い山脈』の西条八十と、『リンゴの唄』の万城目正による
島倉千代子、16歳のデビュー曲にして、最高傑作!
60年後の最後のシングル『からたちの小径』にも、当時の音源が収録!
1955年(昭和30年)公開、同名映画のために書き下ろされた曲で、島倉千代子のデビュー曲です。このコラムでも何度も登場しているSP盤レコードです……。
レコードと言うと、直径30cm、33回転の「LP」と、直径 17cm、45回転の「EP」(厳密には「45回転 7インチ シングル レコード」)しか知らないお若い方に、ちょっとだけご説明すると、「LP盤」や「EP盤」の前、レコードは、全て「SP盤」というモノでした……。
で、「SP盤」の時代は、基本的に、レコードのジャケットというものは存在していませんでした。このコラムでも、今回のように、いわゆるジャケ写ではなく、レコード盤のレーベルの写真を掲載しているモノは、そういうコトなんです……。
SPレコードは、茶色っぽい、パリパリした「スリーブ」と言われる「レコード袋」に入れられていました。「スリーブ」の中央には、ちょうどレコード盤のレーベルの大きさの丸い穴が空いていて、レーベル面が見えるコトで、何のレコードかが識別できるというワケです……。
この「スリーブ」は、レコードごとの固有のモノではなく、だいたいレコード会社(レーベル)共通のモノでした。ただ単に「Columbia」とか「KING RECORD」とか「VICTOR」とか、レコード会社のロゴが印刷されたシンプルなモノを基本に、その時々の人気のレコードや「推しモノ」の宣伝が入っているモノもあったりしていました。
だから、「のちのLP盤」の時代にあった「ジャケ買い」などということは、この当時はありえません……。
ちなみに、今回、島倉千代子の写真の入ったピクチャーレーベル盤の写真を載せていますが、実は、写真のない、シンプルな文字だけのレーベルも存在しています。セカンドプレスから変更したりとか、そういうコトもよくあったのです……。
SP盤は、1962年(昭和37年)ころまで新譜が発売されていましたが、1954年(昭和29年)に登場した LP盤、EP盤にかわっていって、1964年(昭和39年)にSP盤は販売終了となりました。移行期には、SP盤とEP盤と、両方出ているレコードもあったり……。
ちなみに、SP盤と、その後の、LP や EP盤とは、素材も違っていて、SP盤は、シェラックという樹脂製で、LP や EP盤は、塩化ビニール素材です。だから、ビニール盤とか、ヴァイナル盤とか言われてます。
そう言えば、シェラック製の SP盤は、よく割れてましたっけ……。
で、78回転 の SP盤には、25cm(10インチ)のモノと、30cm(12インチ)の2種類があって、25cm盤で片面3分くらいしか収録できませんでした。だから、『旅の夜風』も『リンゴの唄』も『青い山脈』も、当時の流行歌は、ほとんどが3分以内で出来てるんですね〜。
この「3分しばり」があったからこそ、無駄のない、コンパクトにまとまった名曲がたくさん出来たとも言えます。デューク・エリントン、カウント・ベイシー、チャーリー・パーカーなど、ジャズの世界の名演だってそうです……。
それが、いわゆる 45回転 の EP盤(45回転 7インチ シングル・レコード)になると、片面5分〜8分くらいまで収録できるようになり、その後、CDになるともっと長くなり、それとともに、1曲の長さも長くなっていったんです……。
ちなみに、レコードは外側ほど音質が良く、内側ほど音質が悪いため、その後、LPサイズ(30cm)のシングルが出来たりもしたんですね〜。
もちろん、SP盤にも、歌詞カードは付いていて、だいたい縦型のモノでした。このコラムの、北原ミレイ『ざんげの値打ちもない』と、野口五郎『青いリンゴ』の回にも書きましたが、この頃から、歌詞カードには、歌手のプロフィールとともに、現住所が載っていました。
この『この世の花』の歌詞カードにも、「現住所 東京都品川区北品川二ノ五六」と書かれています……。
そもそも、今回のこのレコードは、島倉千代子の『この世の花』が A面というワケではなく、カップリングの『あゝ若き日よ、どこへゆく』(霧島昇・コロムビアローズ)との、今で言う「両A面シングル」です。そもそも、当時は、AとかBとかの記載は、まだありませんでしたが……。
いずれにしろ、『この世の花』だけでなく、『あゝ若き日よ、どこへゆく』の 2曲とも、実は、映画『この世の花』の主題歌だったんです。
で、もともと、『この世の花』も、コロムビアローズが歌う予定だったのを、当時、コロムビアレコードの文芸部長だった伊藤正憲が、『旅の夜風』や『リンゴの唄』でも知られる大作曲家の万城目正を説得し、16才の島倉千代子のデビュー曲となったそうです。いいヒトです……。
テレビ、冷蔵庫、洗濯機という「三種の神器」が普及し始め、少しずつ生活が豊かになりだしたこの頃ですから、当時、この映画を見たヒトの中には、移動映画館で、神社の境内なんかで見られたヒトもいることでしょう……。
さて、『この世の花』は、『旅の夜風』(霧島昇&ミス・コロムビア)、『純情二重奏』(霧島昇&高峰三枝子)や『越後獅子の唄』(美空ひばり)など、戦前、戦後と、多くのヒット曲を飛ばした「西條八十」と「万城目正」のコンビによるもの。いかにも、このコンビらしい雰囲気があって、何度聴いても飽きのこない、心に沁みるいい曲です。
万城目正が作った切ないメロディに、『誰か故郷を想わざる』(霧島昇)、『蘇州夜曲』(霧島昇・渡辺はま子)、『青い山脈』(藤山一郎&奈良光枝)などで知られる作詞家の西条八十が歌詞を書きました。
厳格な七五調……、無駄がなく、品のある美しい日本語で、実に見事な歌詞です。言葉のリズムも良いですし、だいたい、この短い歌詞の中で、実らなかった切ない初恋の思い出を、多くの人の心に響くように描かれています。
このように、メロディも歌詞も抜群ですが、この曲を名曲たらしめ、200万枚とも言われているセールスを記録したのは、やっぱり、島倉千代子の歌唱があったからこそです。
これほど完成度の高い楽曲ですから、誰がカバーして歌っても感動するものですが、でも、やっぱり、「島倉千代子の声で聴きたい」と思ってしまいます……。
島倉千代子には数多くのヒット曲がありますが、『この世の花』に限らず、島倉千代子の曲は、どれもこれも、他の人が歌ってもなんか違う……というか、やっぱり「島倉千代子の声で聴きたい」と思ってしまいます……。
それが、まさに、島倉千代子の歌の魅力で、歌手の「味」であり、「個性」で「オリジナリティ」で、その人ならではの「オンリーワンの魅力」というか、その人たらしめている「歌手としてのアイデンティティ」です。
たとえば、美空ひばりや三橋美智也の歌は、だれもが「うまいよね……」と言うと思いますが、『この世の花』を作曲した万城目正が、レコーディングの時に島倉千代子に「君は歌がヘタだね」と言ったように、「島倉千代子は歌がうまいか?」と問われると、一般的に思われている「うまい」という基準から考えると、決してうまいとは言えません……。
しかーし! 歌がうまいことと 売れることは違います。
うまいものが売れるわけではありませんし、「うまい歌」を買うのではなく、「好きな歌」を買っているハズです。だから、歌手は、「うまい歌」ではなく、「好きになってもらえる歌」を歌わなければならないのです……。
もちろん、最低限の音程やリズムの正確さは必要ですし、高い声が出たり、大きな声が出るにこしたことはありませんが、必ずしも「力強く張った声で、朗々と歌うこと」だけが正解ではないのです。その歌唱が「魅力的か?」ということが最も重要と言えます……。
明るく響くヌケの良い歌声、聴く人を緊張させないチカラの抜けたやさしい歌唱、言葉を置くように歌う独特の間の取り方……、島倉千代子の歌唱には、うまく説明できない不思議な魅力があります……。
「泣き節」とも言われた、細かく震える「ちりめんビブラート」のような裏声は、本来は、邪道かもしれませんが、でも、そこも、大きな魅力のひとつだったりします……。
余談ですが……、コロッケがやる島倉千代子のモノマネもいいですが、北島ファミリーの歌手、大江裕がやる島倉千代子のモノマネは、本当に見事です……。
で、『この世の花』のレコーディングの時、作曲の万城目正も、うまく歌おうとするのではなく、歌詞のドラマを歌うようにと指導したそうです。まさに、そういうコトではないでしょうか……。
そう言えば……、小柳ルミ子を育てた作曲家の平尾昌晃も、「歌は、うまく歌うことが素晴らしいんじゃない。心に 響く歌が素晴らしい」というようなことを言っています……。全くその通りです。
島倉千代子の歌は、チカラがヌケているのに、歌う言葉にチカラがあって、歌詞の裏側にあるモノが伝わってきます……。
とにかく、簡単に説明ができるのとは違って、そういう説明できないような魅力だからこそ、これほど売れてスーパースターになり、16歳のデビューから、60年も活躍することができたのでしょう……。
なにしろ、デビューした 1955年(昭和30年)には 23曲、その後、毎年、年間30曲以上という、今では考えられない驚異的な速さで新曲を発表し、市販されたシングル曲がゼンブで 503曲、録音された曲は、およそ 2,000曲と言われています(記録がないので、誰にもわからないかも……)。
16歳の時にレコーディングした『この世の花』、その後も、『逢いたいなァあの人に』『東京だョおっ母さん』『思い出さん今日は』『からたち日記』『哀愁のからまつ林』『恋しているんだもん』『ほんきかしら』『愛のさざなみ』……、そして、40代のころの『鳳仙花』、1987年(昭和62年)52歳の時の『人生いろいろ』……と、ヒット曲は数えきれませんが、いずれも、島倉千代子の歌は、島倉千代子の声で聴きたいものです……。
ちなみに、『この世の花/あゝ若き日よ、どこへゆく』がリリースされた翌年、1956年12月10日には、EP盤(45回転 7インチシングル)で再リリースされています(Columbia SA-16)。で、この時には、松竹映画『続、この世の花』主題歌の『おもいで花』(1955年11月1日発売)とのカップリングになっています。
余談ですが、ウィキペディアの『この世の花』(映画)のページには、現状、主題歌として、このシングルが記載されていますが、これは間違いです……。だって、このシングルのカップリング『おもいで花』は、翌年の続編映画の主題歌ですし、先にも書いたように、霧島昇とコロムビアローズの『あゝ若き日よ、どこへゆく』も主題歌だからです……。
そして、2013年(平成25年)12月18日に日本コロムビアより発売された、島倉千代子の最後のシングル『からたちの小径』のカップリングにも、オリジナルの『この世の花』が収録されています。
最後のシングル『からたちの小径』は、本人からの申し出で、当初の予定のレコーディング日を繰り上げ、しかも、11月8日に 75歳で亡くなる 3日前に、動くこともままならなかったため、自宅で録音されました。自身の死期をわかっていたのか、それとも、レコーディングが出来たことで安心したのかわかりませんが、その日の夜に昏睡状態に陥ったそうです……。
スター歌手として60年を生きた島倉千代子の壮絶なエピソードです……。
この時、1曲、3コーラスを歌うことも心配された中、フルコーラスで3回『からたちの小径』を歌い、テイク・ワンが採用され、発売されました……。
最後の歌も、島倉千代子らしい、いい歌です。
ある年齢を過ぎると、「昔は良かった……」とは、よく言ってしまう言葉ですが、この時ばかりは、技術の進歩で、自宅でレコーディングが出来て本当に良かった……、そう思ったもんです……。
(2020年10月14日 西山 寧)
島倉千代子 歌詞一覧
作詞:西条八十 歌詞一覧
作詞:西條八十 歌詞一覧
作曲:万城目正 歌詞一覧
収録CD「からたちの小径」日本コロムビア
収録CD「島倉千代子全曲集 からたち日記」日本コロムビア