江利チエミ「テネシー・ワルツ」
江利チエミ「テネシー・ワルツ(TENNESSEE WALTZ)」 片面「家へおいでよ!(COME ON-A MY HOUSE)」
作詞:Redd Stewart、作曲:Pee Wee King、訳詞:音羽たかし(和田寿三)、演奏:キング オーケストラ
1952年(昭和27年)1月23日発売 SP盤 10インチレコード (78rpm、モノラル)
CL-101(C-791) 8556 KING RECORD
1952年 SP盤 78rpm mono CL-101 KING RECORD (オリジナル盤)
1952年 SP盤 78rpm mono US盤 C-791 Capitol / KING RECORD(オリジナル盤と同一音源)
1954年 EP盤 45rpm KEA-1 KING RECORD ¥650-
(4曲入り EP盤)(演奏:原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
1962年 EP盤 45rpm STEREO EB-7143 KING RECORD ¥290- 2:26
(編曲:牧次郎、演奏:原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
※ ほかにも、前田憲男アレンジバージョン等、多数あり。
1937年1月11日、東京都台東区生まれ生まれ、本名:久保智恵美こと歌手・江利チエミのデビュー曲。
クラリネットやピアノを弾いていたバンドマンの父と、歌劇団の女優の母との間に生まれ、12歳のころから進駐軍キャンプで歌い始める。1952年(昭和27年)1月、15歳の時に「テネシー・ワルツ(TENNESSEE WALTZ)」でキングレコードから歌手デビュー(録音は前年の1951年11月で14歳の時)。翌年デビューの雪村いづみと、既にデビューしていた美空ひばりとで「三人娘」と呼ばれ人気を博す(3人とも1937年生まれ)。「三人娘」としての代表作である映画『ジャンケン娘』のほかにも、映画やテレビドラマにも数多く出演し、とくに、テレビドラマ『サザエさん』が人気となる。また、1963年(昭和38年)には、日本におけるブロードウェイ・ミュージカルの初演となる『マイ・フェア・レディ』に主演し、日本にミュージカルを定着させた。代表曲には、『時計 (エル・ロッホ)』『虹の彼方に』『新妻に捧げる歌』『さのさ』『私だけのあなた』『酒場にて』などがある。
1959年に、俳優の高倉健と結婚するが、1971年に離婚。1982年(昭和52年)2月13日、45歳で死去。亡くなる直前の2月8日に「ホテルニュージャパン火災」、翌2月9日には「日航機羽田沖墜落事故」という2つの大惨事が起きたため、江利チエミの死は、当時、あまり大きくは報じられなかった。密葬が行われた2月16日は、高倉健の誕生日であり、二人の結婚記念日でもあった。
キングレコードのディレクターが訳詞し、
江利チエミが 14歳の時に録音!
元米国務長官のダレスも認めた、天才少女のデビュー曲!
パティ・ペイジの『Tennessee Waltz』を、進駐軍放送の「AFRS」(「WVTR」、のちの「FEN」、現在は「AFN」)で聴いたことがる……というヒトは、間違いなく80歳以上の方でしょう……。
江利チエミの『テネシー・ワルツ』が発売された1952年(昭和27年)は、NHKが実験放送として「ステレオ放送」を始めた年(当時は「立体放送」と言ってた)。ステレオと放送と言っても、FM放送ではなく、中波(AM)である NHKラジオ第1放送と第2放送のモノラル音声2波を使ってステレオにしていました……。つまり、AMラジオが2台ないとステレオにならないというコト。画期的。
日本で、ステレオのレコードが発売されたのは、もっとあとで、1958年(昭和33年)のコト。
この年、1952年(昭和27年)の1月に、江利チエミのデビュー曲として『テネシー・ワルツ』が発売されたのですが、11月には、同じキングレコードから、『ドミノ / 火の接吻』でペギー葉山がデビューし(年は4つ上)、二人は、その後、キングレコードの2枚看板となります。
一方、「三人娘」のほかの二人はと言えば、雪村いづみが、その翌年の1953年(昭和28年)に『想いでのワルツ』でデビューし、美空ひばりは1949年(昭和24年)にすでに『河童ブギウギ』で歌手デビューしていました。ご存知のように、3人とも年は同じで、いわゆる戦前の1937年(昭和12年)生まれ。
「生まれ」といえば……、この『テネシー・ワルツ』の1952年(昭和27年)という年はスゴイ年で、坂本龍一、高橋幸宏、中島みゆき、さだまさし、浜田省吾、河島英五、吉幾三、野村将希、鳥羽一郎らが生まれた年です。
まだまだ、いますよ……、小柳ルミ子、水谷豊、江木俊夫、松坂慶子、タケカワユキヒデ、グッチ裕三、しばたはつみ、清水健太郎、新垣勉、夏木マリ、坂田おさむ、後藤次利、ジェームス・イングラム、リー・リトナー……、風吹ジュン、三浦友和、草刈正雄らも同い年なんですね〜、み〜んな今年68才。もとNHKアナウンサーの石澤典夫さんや、東京都知事の小池百合子さんも。
さて、この1952年(昭和27年)4月28日には、その前年、1951年9月8日に調印された「サンフランシスコ講和条約」(そう習った気がしますが、今では「サンフランシスコ平和条約」と言うらしい)が発効されました。連合国による占領は終わり、日本国は主権を回復するというアレです。
のちのアイゼンハワー政権時代に国務長官となったジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)が、この講和条約の交渉にあたっていて、3度にわたって来日。
そのダレスが、帰国する際、日本の記者から日本の印象を聞かれ、「江利チエミという幼い少女歌手が歌っている『テネシー・ワルツ』は、母国で最初に歌ったパティ・ペイジと同じくらいうまい。英語の発音も歌も素晴らしいし、日本にもこんなに素晴らしいシンガーがいる。彼女のレコードが私のお土産です」というようなコトを言ったそうです。(『江利チエミ 波乱の生涯-テネシー・ワルツが聴こえる』『江利チエミ物語-テネシー・ワルツが聴こえる』藤原佑好著)
この、ダレスが、江利チエミの『テネシー・ワルツ』のレコードを持ち帰った年は、美空ひばり『リンゴ追分』『お祭りマンボ』、春日八郎『赤いランブの終列車』、神楽坂はん子『ゲイシャ・ワルツ』、藤山一郎『丘は花ざかり』、伊藤久男『山のけむり』、田端義夫『大利根月夜』などが巷には流れていました。
レコードプレイヤーは「電蓄」と呼ばれ、なにしろ、まだ敗戦 7年目、「ギミ〜チョコレ〜ト」の時代ですから、渡辺はま子(宇都美清)『あゝモンテンルパの夜は更けて』なんて歌も流行っていました……。
そんな時に、日本語と英語の混じった、洋楽でも邦楽でもない、江利チエミの『テネシー・ワルツ』は、衝撃的でした。
ご存知のように、『テネシー・ワルツ』は、1950年(昭和25年)にパティ・ペイジの歌で、米国「ビルボード」チャートで9週連続第1位、通算30週チャートにランクインし続ける大ヒットとなりました。
しかし、ホントは、それもカバーで、もとは、この曲の作曲者であるピー・ウィー・キング(Pee Wee King)と、作詞者のレッド・スチュワート(Redd Stewart)が組んでいたカントリーソングバンド「ゴールデン・ウエスト・カウボーイズ」(Pee Wee King & His Golden West Cowboys)が、1948年にリリースした曲。
パティ・ペイジの後にも、レス・ポール with メアリー・フォード、ジョー・スタフォード、ガイ・ロンバード、ハンク・ウィリアムス、コニー・フランシス、パット・ブーン、エルヴィス・プレスリー、サム・クック、オーティス・レディング、ジェームス・ブラウン、エミルー・ハリス、ホリー・コール、ノラ・ジョーンズ……、白人黒人、男女を問わず、また、カントリーシンガーだけでなく、ポップスやR&Bの歌手らにも、数多くカバーされ続けています。
日本でも、美空ひばり、雪村いづみ、ザ・ピーナッツ、エト邦枝、園まり、伊東ゆかり、城卓矢 、フランク永井、ダーク・ダックス、デューク・エイセス、真梨邑ケイ、小坂一也、加藤登紀子、水前寺清子、佐良直美 、ダ・カーポ、柳ジョージ&レイニー・ウッド……五木ひろし、工藤静香、つじあやの、村上ゆき、石原詢子、水森かおり……、こちらも、男女を問わず、いまだにカバーされ続けています。
最近では、2003年(平成15年)の「第54回NHK紅白歌合戦」で、綾戸智恵(当時は「綾戸智絵」)が歌ったことも記憶に新しいでしょう……(15年前は、もはや最近)。
ところで、パティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』には、1950年のマーキュリー・レコード時代の録音と、1963年以降のコロムビア時代のバージョンがあるように(それらの他にも、突然、転調するヤツとか、まだまだある)、江利チエミのテネシー・ワルツ』にも、最初の1952年(昭和27年)のバージョンの他に、1954年(昭和29年)録音盤(イントロがギターで、2番のAメロがクラリネットのソロになってるワン・ハーフのヤツ)、1962年(昭和37年)のステレオ録音盤(イントロがブラスで、2番のAメロがないワン・ハーフのヤツ)があります。
なんでも、録音技術が進歩するたびにレコーディングをしていたようで、ほかにも、前田憲男アレンジのモノとか、まだあるようです……、よくわかりませんが。
いずれにしろ、日本語の2番のAメロが歌われているのは、最初のバージョンだけで、他は、2番のAメロがなくて、1番の後が、いきなりサビの繰り返しになるワン・ハーフのサイズです。
さて、この曲のもともとの歌詞ですが、ざっくり言うと、「主人公のボクが、カノジョと『テネシー・ワルツ』って曲で踊っていた時に、偶然、古い男友達に出会って、カノジョに紹介したら、その旧友の男友達にカノジョをとられちゃった……」というモノ……。
なんともシュ〜ルな内容ですが、オリジナルの「ゴールデン・ウエスト・カウボーイズ」は、そんな深刻な思い詰めたカンジでもなく、「やられちゃったな〜」みたいなニュアンスの明るいカンジです。
ちなみに、曲中に出てくる「テネシー・ワルツ」という曲は架空の曲で、そんな曲がもともとあったわけではありません。『テネシー・ワルツ』は、後にも先にも、この曲だけです……。
で、パティ・ペイジ版では、主人公が女性に置き換えられていて、歌詞の「him」を「her」に変えて歌っています。
英語と日本語のチャンポンになっている江利チエミ版はと言えば、英語の部分は「her」で「パティ・ペイジ版」(女性が主人公)、日本語の部分は「別れた あの娘よ」と、オリジナル通りの「ゴールデン・ウエスト・カウボーイズ版」(男性が主人公)になっていてたりすます……。コレもチャンポン……。
その日本語詞を付けたのは、音羽たかし。
「音羽たかし」というクレジット名は、江利チエミの『テネシー・ワルツ』以外にも、ザ・ピーナッツの『情熱の花』や『悲しき16才』、平尾昌晃バージョンの『ダイアナ』、ペギー葉山なら『ドミノ』ヤ『火の接吻』など、多くの外国曲カバーの訳詞や作詞で知られる名前ですが、このコラムの『ケ・セラ・セラ』の回(第29回、ペギー葉山)でも書いたように、実は、そんな人はいません……。
「音羽たかし」というのは、キングレコードのディレクターが日本語への訳詞をする際に使ったペンネームです。
江利チエミのディレクターだった和田壽三や、ザ・ピーナッツやペギー葉山を担当していた牧野剛も「音羽たかし」のひとりです。もしかしたら、他にももっと「音羽たかし」がいたのかもしれません……。しずれにしろ、キングレコード をカバーポップスの宝庫にした名前。
で、江利チエミの『テネシー・ワルツ』を作詞したのは、当時、ディレクターだった和田壽三(JASRAC 登録で、そうなっています)。当時のディレクターはスゴかったんですね……訳詞までして。
しかし、なにより、日本でもヒットさせた歌を歌った江利チエミのスゴさ……。14歳ですよ、14歳。ジブンの14歳を思い出すと……、まだ「鼻垂れ小僧」の延長線みたいなモノ……。
チカラの抜けた、落ち着いた、低音の豊かな響きの歌声。3拍子を意識させない、自分なりにフェイクっぽく歌える抜群のリズム感。ダレスも絶賛したように、英語なんか習ったこともないのに、言葉として英語らしい見事な発音……。
12歳のころから、進駐軍キャンプで歌っていて、生きた英語に触れていたコトは、もちろん大きかったと思いますが、もともと、耳が良かったのでしょう……。お父さんがミュージシャンで、お母さんも歌劇団の女優だった血や、育った環境もあったんでしょうね〜。
ちなみに、「音楽の耳」が良いヒトは、「言語感覚の耳」も同じく良いと、経験的に感じています……。
いずれにしろ、もとは「外国曲のカバー」ですが、半分を日本語で歌い、日本人の歌として、日本の流行歌(歌謡曲)に昇華できたことが、この曲がヒットした理由のひとつかと思います。今でもワタシたちのここに残る、いまだに歌い継がれている名曲です。
ダレスが心を動かされたのも、ただ単に「英語がうまかったから」ではなく、そこに「日本のフィーリング」と「日本の心」を感じたからなのでしょう……。
だって、英語がもっと完璧だったとしても、パティ・ペイジの歌にはかないませんから。
ちなみに、ワシントンのダレス国際空港(IAD / Washington Dulles International Airport)の名前は、この江利チエミのレコードを持ち帰ったダレスから付けられていたりします……。
(2020年7月29日 西山 寧)
江利チエミ 歌詞一覧
作詞:和田寿三 歌詞一覧
作詞:音羽たかし 歌詞一覧
作曲:P.W.King 歌詞一覧
収録CD「特選・歌カラベスト3 江利チエミ①」キングレコード
収録CD「決定版 2020 江利チエミ」
ペギー葉山が、江利チエミについて語った言葉
(歌詞サイト「歌ネット」2012年4月のインタビューより)
チエミさんは、もう、全然、私の歌とは違いますよ。彼女は天才ですもの。あのリズム感はすごかったですよ。歳は、私よりずっと若かったけど、デビューは1年先輩です。
それで、私が米軍キャンプでも、専属のバンドシンガーとしてただ歌っていた時に、チエミさんは、もう別格のゲスト扱いで、土曜日の「サタデーナイトショー」っていうので迎えられていたのね。白いソックスにエナメルの靴はいて、カールの髪にリボンを付けて、今のAKBみたいなスカートはいてね(笑)。
それで、「Come On A my House」(「家へおいでよ」)を歌ったら、もうスタンディングオベーションですよ。その後に、私がバンドシンガーとして歌うのは、なんだかすごく肩身が狭かったですね。
ペギー葉山 インタビューアーカイブ(2012年4月 歌ネット)全文