第38回 霧島昇・並木路子「リンゴの唄」(1946年) -MUSIC GUIDE ミュージックガイド

色あせない昭和の名曲
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第38回 霧島昇・並木路子「リンゴの唄」(1946年)

赤いリンゴに くちびる寄せて
だまって見ている 青い空 ……

霧島昇・並木路子「リンゴの唄」

霧島昇・並木路子「リンゴの唄」(3:07)歌謡曲  片面「そよかぜ」
作詞:サトウハチロー、作曲:万城目正、編曲:仁木他喜雄、コロムビア オーケストラ
1946年(昭和21年)1月発売 SP盤 10インチレコード (78rpm、モノラル) 
12 A-59 (1209692) Columbia 日蓄工業(日本コロムビア)
松竹映画「そよかぜ」主題歌

 1921年9月30日生まれ。1936年、松竹少女歌劇学校に入り、1937年に東京・浅草国際劇場で初舞台、1943年に「御代の春」で歌手デビューし、1945年10月11日に公開された松竹映画「そよかぜ」に初主演した歌手・並木路子の同映画の主題歌(「リンゴの唄」「そよかぜ」ともに主題歌)。レコードは、翌年の1月に発売、戦後初のヒット曲となり、その後、現在に至るまで多くの歌手にカバーされ続け、歌い継がれている国民的歌謡曲のひとつ。2007年(平成19年)には「日本の歌百選」に選出。映画の中では、レコードには録音されていない別の歌詞「♪リンゴがたてる 香りにむせて 泣けてもくるよな 喜びよ……」で始まるコーラスも存在する。
 作詞は、「うれしいひなまつり」「ちいさい秋みつけた」などの童謡や、「長崎の鐘」「悲しくてやりきれない」「あゝそれなのに」(星野貞志 名義)「うちの女房にゃ髭がある」(星野貞志 名義)などを書いたサトウハチロー。作曲は、「旅の夜風」「悲しき口笛」「純情二重奏」「この世の花」などを作った万城目正。
 1949年(昭和24年)に、並木のソロ歌唱によるレコードが発売され、1965年(昭和40年)には、並木のソロ歌唱によるステレオ音源が録音されている。さらに、1971年にも再録音され発売された。
 並木路子には、他にも果物の名のついた「バナナ娘」や「パイナップルと私」といったタイトルの曲がある。
 1993年から日本歌手協会の副会長も務め、70歳を過ぎてもオリジナルキーで「リンゴの唄」を歌い続け、2001年4月7日(平成13年)79歳で死去。その日も、コンサートの予定があり、ラストに歌う予定だった曲は「リンゴの唄」だった。ほかに、「美しきアルプスの乙女」「森の水車」「可愛いいスイートピー」「ペンギン鳥の夢」などが代表曲。
 「リンゴの唄」の曲の著作権は、2018年末に消滅の予定だったが、2018年に法改正が行われ、消滅直前に20年延長となり、2038年12月31日までとなっている(歌詞は、2043年12月31日に消滅)。


当時の日本人に希望を与え、
同時に、なかにし礼に「残酷な歌」と思わせた、
戦後初のヒット曲!


 1946年(昭和21年)1月に発売された、戦後初のヒット曲です……。
 もともと、発売の前年、並木路子が主演で、1945年(昭和20年)10月11日に公開された敗戦後 初の映画『そよかぜ』の主題歌として作られた曲。ちなみに、『リンゴの唄』とともに『そよかぜ』という曲もあり、コレも「主題歌」とされていて、レコードでは、どちらがA面とかB面とかはなく、カップリングになっています。

 『リンゴの唄』は、映画の公開後、レコードの発売前からラジオで頻繁に歌われていたりもしました。実際、1945年12月31日に放送された、『NHK 紅白歌合戦』の前身となる番組『NHK 紅白音楽試合』で、並木路子が歌っています。

 それまでは、大本営発表と軍歌ばかりが流れていたラジオを通じて日本全国に広がり、レコードが発売されると大ヒット。家庭ではもちろん、闇市や引揚船の中などでも歌われたようです。食べるものすらなかった当時、蓄音機も、そんなにはなかったであろうに、定かではありませんが、レコードの売上は、10万枚とも30万枚とも言われています。

 1945年(昭和20年)8月15日に玉音放送が流れ、8月30日にマッカーサーが厚木飛行場に来て、10月2日には GHQ が日比谷にでき、その後、マッカーサーが、帝国憲法の改正、婦人の解放、学校教育の改革など、民主主義化を日本政府に指示した、まさにその日、10月11日に、この映画『そよかぜ』が公開になりました。

 戦争中も、軍歌を録音したり、戦意高揚映画を撮っていたとは言え、日本中が焼け野原となっていたこの時代に、映画やレコードを作るのには、並々ならぬ情熱が必要だったと思います。

 実際、戦時中、レコード盤の材料となるシェラック、コーパルガム、カーボンブラックなどは、貴重な戦争用資材でもあったことから、レコードへの割り当てはごくわずかでした。なので、代用品や中古レコードの再利用をしなければならず、レコードの品質は、この頃、極端に劣化していました。

 戦争中、外国語は禁止ということで、1943年(昭和18年)から、商標を「ニッチク」に変更していた「コロムビア」も、1945年(昭和20年)3月には、ついにレコードの生産を中止せざるを得ませんでした……。というか、逆に、よくそこまで作っていられたとも思いますが……。

 さらに、日本ビクター蓄音器(現.ビクター)、日本ポリドール蓄音器商会(ユニバーサル)は、本社も録音施設も工場も空襲で焼失していて、大手で戦火を逃れたのは、奈良の帝国蓄音器(現.テイチク)と、川崎にあったニッチク(日蓄工業/現.日本コロムビア)だけだったそうです……。

 それで、敗戦後に「ニッチク」は、10月からレコードの生産を再開し、翌1946年(昭和21年)、『リンゴの唄』の発売の後、4月に社名を「日本コロムビア株式会社」に変更しています。

 前後しますが、1945年(昭和20年)12月1日には、GHQ が戦犯容疑者を逮捕し、12月5日には、国と宗教を分離させる「神道指令」を出し、翌1946年(昭和21年)1月1日に、天皇が人間宣言をした……、そんなころに発売された歌です……。

 この歌は、並木路子がソロで歌っているバージョンが、後々、有名になってしまったので、「並木路子のソロ曲」だと思っている方も少なくないようですが、最初に発売されヒットしたレコード、オリジナル・バージョンは霧島昇とのデュエットです。なんでも、当初、並木路子がソロとして歌うハズだったものを、作曲の万城目正に、霧島昇が「歌わせてくれ」と直談判してデュエット曲になったようです。

 映画の『そよかぜ』は、実家が「リンゴ農家」という設定の並木路子演じる「みち」が、劇団の照明係をしながら歌手を目指すというスター誕生的な物語。劇中、並木路子が子供たちと『リンゴの唄』を歌うシーンがあるのですが、まだ『リンゴの唄』が完成していなかったため、撮影の時には『丘を越えて』を歌い、後日、スタジオで『リンゴの唄』を吹き込みました。

 さて、フシギなのは、この曲の歌詞です。
 75年も前の曲で、今でも歌い継がれている国民的な大ヒット曲ですが、いくら読んでも、歌詞の意味がよくわかりません……。「この歌が戦後の日本人を勇気付けた」とかよく言われますが、この歌詞の、どこに勇気づけられたのでしょう……。
 歌詞の中の「リンゴ」とは、自分自身とか、日本人とか、あるいは「命」とか「生」とか、そういう比喩にも思えますし、本物のリンゴのようでもあります……。

 ただ、「赤いリンゴ」という言葉で始まることで、聴き手は、無意識に色をイメージします。そのあとに「青い空」と、赤に対比させる色がまた出てきます。戦時中の暗かったモノクロのようなイメージから、明るいカラーの世界に変わったことを暗に伝えているようにも感じます。

 とにかく、聴く人によっていろんな意味に解釈が出来る歌詞ですが、一貫しているのは、空襲がなくなった「青い空」を背景にして、平和と自由、明るく楽しいことだけが歌われているということです。
 理屈や説明ではなく、そういうことが、多くの人の共感を得られた理由のひとつだったのではないでしょうか……。

 もちろん、言葉が耳に残る「メロディ」と、そもそも、曲はマイナー調の曲なのに、イントロはメジャー調で元気よく始まるという「アレンジ」や「サウンド」も「勇気付けた」と言われる理由のひとつかもしれません。

 そして、なにより、霧島昇の歌声は言うまでもなく、作詞のサトウハチローが「この歌を歌えるのは、明るい歌声の並木しかいない」と強く希望したと言われる、並木路子の歌声の良さがあったからではないでしょうか。

 しかし、戦争で、父と次兄、初恋の人を失い、3月10日の東京大空襲で母までもなくしていた並木路子は、この歌のレコーディングの時、万城目正から「もっと明るく歌いなさい」と何度も言われましたが、明るく歌おうとすればするほど、死んだ母や恋人のことなどが思い出され、ますます歌えなくなったそうです。

 そこで、万城目正は、録音を中断し、並木路子に上野へ行くように言います。上野の闇市で靴磨きをしていた戦災孤児に出会ったことで、「私だけが不幸なわけではない」と、その時、並木路子は感じたそうです。
 万城目正は、スタジオに戻った並木路子に「その思いを大切にしなさい」と言い、あの歌声の録音が出来上がりました。

 戦争で家族をなくした人が珍しくなかった当時、並木路子のような境遇の人は日本中にいて、そういう人たちの悲しみを、自らも持ち、感じていたからこそ、あの明るい歌声となり、多くの人の心に何かが伝わったのではないでしょうか……。

 ちなみに、この『リンゴの唄』の歌詞が作られた時期に関しては、戦時中とする説と、戦後とする説の二つがあります。
 作詞をしたサトウハチロー本人が「戦時中に作った」とも言っていたりしますが、2018年に出版された永嶺重敏氏による『「リンゴの唄」の真実』(青弓社)では、綿密な取材と資料を再検証した結果、「戦後の作品だった」結論づけています……。
 実際、『リンゴの唄』の歌詞として完成させたのは、戦後かもしれませんが、アイディアとかは戦時中からあったのかもしれませんね。

 諸説あると言えば……、映画『そよかぜ』が、GHQ による映画検閲を通過した第1号の作品とされていますが、コレも、実際は検閲を受けていないというハナシもあったり……。まあ、いずれにしろ、検証もできないくらいムカシで、それほど混乱の時代だってことですね。

 ただ、忘れてはならないのは、「当時の日本人に希望を与えた曲」と言われる『リンゴの唄』が、必ずしも、すべての人々に肯定的に受け止められたわけではなかったということです。

 たしかに、引揚船の中でも「希望の歌」として歌われたということはあったようですが、同時に、地獄を見た戦地から引き揚げてきた若者にとっては、逆に神経を逆なでするような歌に……、あるいは、大陸から命からがら引き揚げてきた女性にとっては、バカにされているような歌に聞こえた……、と感じた人も中にはいたようです。

 実際、満洲からの引揚船で聴かされて、泣きながら一緒に歌ったという作詞家のなかにし礼も、「残酷な歌」だと言っています……。そのへんのことは、前述の永嶺重敏氏の本に詳しく書かれていますので、興味のある方は、そちらでお読みください……。

 人は、辛いことや悲しみを、時間と共に自然と美化していってしまいます。それが、自然と備わっている、自分を守る、自己防衛の機能なのだとは思います。でも、意識して忘れないようにしなければならないこともありますし、物事を単純化してしまうことは危険です……。

 ところで、余談ですが……、このレコードの企画番号、いわゆるレコード番号は「A-59」なのですが、初版プレス盤のレーベルには「12 A-59」と書かれています……。実は、この「12」という数字は、税率区分の表記なんですね〜。そうです、物品税です。

 贅沢品にかけられていた物品税は、戦費調達のため 1937年(昭和12年)に導入され、レコードには、最初、20%の物品税がかけられていました。
 それが、昭和15年には25%、昭和16年には50%。昭和17年には80%。昭和19年2月には、何と120%にもなって、税金の方が高くなってしまいました。
 1946年(昭和21年)1月に発売された『リンゴの唄』も、税率は120%のまま。それでも売れたというのは、本当にスゴイことです。

 しかし、「いくらなんでも!」ってことで、その年、1946年(昭和21年)の9月には100%、昭和22年には80%、昭和23年に50%、昭和26年には20%と徐々に下がり、昭和40年代に入ると15%にまで下がりました。
 1989年(平成元年)4月1日の消費税法が施行され、消費税3%が導入されたことで、物品税はようやく廃止されたというワケです。

 ちなみに、このレコードにかかっていた物品税ですが、教育用のレコードとか童謡など、「趣味・娯楽品」ではなく教育的なモノは非課税という配慮がありました。ところが、そのことで時々、問題が起きました。

 たとえば、1975年12月25日に発売され、日本一売れたシングルになった「およげ!たいやきくん」が、課税対象の歌謡曲扱いか、非課税の童謡扱いかなのかで騒動になったことがあります。
 結局、1976年2月23日に、国税局により童謡であるとの正式判断が出されたため、物品税は免除されたのですが……。

 まあ、レコードには、長い間、バカ高い税金がかかっていたんですね……。

(2020年6月17日 西山 寧)


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収録CD「スター☆デラックス 並木路子 〜リンゴの唄 森の水車〜」日本コロムビア


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