第32回 霧島 昇・ミス・コロムビア「旅の夜風」(1938年) -MUSIC GUIDE ミュージックガイド

色あせない昭和の名曲
便利でないことが、しあわせだった、あのころ …

週刊・連載コラム「なつ歌詞」

時代を思い出す扉が 歌であってくれればいい … (阿久悠)

第32回 霧島 昇・ミス・コロムビア「旅の夜風」(1938年)

愛の山河 雲幾重 心ごころを 隔ても
待てば 來る來る 愛染かつら
やがて 芽をふく 春が來る ……
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霧島 昇・ミス・コロムビア「旅の夜風」

霧島 昇・ミス・コロムビア「旅の夜風」(3:24) Key=Cm  片面「悲しき子守唄」(ミス・コロムビア)
作詞:西條八十、作曲:万城目正、編曲::万城目正、演奏:コロムビア・オーケストラ
1938年(昭和13年)9月10日発売(※) SP盤 10インチレコード (78rpm、モノラル) 
29920(1204840) コロムビアレコード
松竹大船映画「愛染かつら」主題歌

(※)発売日は「9月10日」「10月」「11月」とする説があり真偽は不明。(映画の公開日は9月15日)
   記載月日と実際の発売日が違うこともあり、実際は、記載の前月20日の場合もある。
   ちなみに、価格も不明です。おそらく、1円50銭〜1円65銭くらいかと思われます。

 1937年(昭和12年)「赤城しぐれ」で歌手デビューした霧島昇と、1933年(昭和8年)「浮草の唄」で歌手デビューしたミス・コロムビア(松原操)が歌った、1938年(昭和13年)9月15日公開の松竹大船映画「愛染かつら」の主題歌。映画の大ヒットとともにレコードも驚異的な売上を記録。その後も二人は、映画「続 愛染かつら」の主題歌「愛染夜曲」、「愛染かつら 完結編」の主題歌「愛染草紙」を歌い「愛染コンビ」と呼ばれ、翌1939年(昭和14年)暮れには、作曲家・山田耕筰夫妻の媒酌によって結婚。
 霧島 昇(本名:坂本 榮吾)は、東洋音楽学校(現:東京音楽大学)声楽科を卒業後、1936年(昭和11年)にコロムビアに入社、翌1937年(昭和12年)に「赤城しぐれ」でデビュー。「旅の夜風」で一躍人気歌手となり、戦前には「父よあなたは強かった」「一杯のコーヒーから」「純情二重奏」「誰か故郷を想わざる」「蘇州夜曲」「新妻鏡」「目ン無い千鳥』などのヒットを飛ばし「コロムビアのドル箱」と呼ばれた。戦時中は、海軍に徴兵されながらも戦時歌謡「若鷲の歌」などを歌う。1945年(昭和20年)10月に公開された戦後映画の第1号「そよかぜ」の主題歌「リンゴの唄」を並木路子と歌い、戦後のヒット曲第1号となった。その後も「胸の振子」「三百六十五夜」などがヒットし、生涯に吹き込んだ数は3千曲を超える。NHK「紅白歌合戦」には、1952年(昭和27年)の第2回から5回出場。1970年(昭和45年)紫綬褒章受章。1984年4月24日(69歳)没。
 ミス・コロムビアこと松原操は、1933年(昭和8年)コロムビアのテストに合格。当時、ビクターの小林千代子がデビュー時に「金色仮面」(ゴールデン・マスク)として売り出し成功したことを真似て、覆面歌手「ミス・コロムビア」として1933年(昭和8年)「浮草の唄」で歌手デビュー。同年、松竹映画「十九の春」の同名主題歌を歌いヒット。並行して松原操 名義で歌った「婦人愛国の歌」「兵隊さんよありがとう」などがヒットする一方、「旅の夜風」ではミス・コロムビアとして歌唱。その後も、「一杯のコーヒーから」「目ン無い千鳥」などを霧島昇と歌いヒット。1940年(昭和15年)には、戦時体制でカタカナ名が禁止されたため、「ミス・コロムビア」としての活動に終止符を打つ。大戦中は松原操 名義で戦時歌謡を歌い、戦後、1948年(昭和23年)に、霧島昇と「三百六十五夜」をレコーディングしたのを最後に引退。夫であった霧島昇が亡くなってから、わずか2ヶ月後の 1984年6月19日(73歳没)。
 尚、戦後、日本コロムビアは、「ミス・コロムビア」の名前にあやかり、新人の女性歌手を売り出すために「コロムビア・ローズ」を誕生させ、現在まで3代の「コロムビア・ローズ」がデビューしている。


 今回の歌が、このコラム「なつ歌詞」で、最も古い曲です。おそらく、ほとんどの人にとって、この曲は、最初からナツメロだったハズ……。なにせ、木炭バスとかが走っていた戦前の昭和13年(1938年)の曲ですから、当時、18歳で聴いたとしたら、今年100歳ということになりますもの。

 この歌が好きで、よく口ずさんでいた亡き父や母を思い出す方も、少なくないでしょう……。戦前の流行歌を代表する歌です。
 そんなに昔の、もう80年以上前の曲にも関わらず、今でも音楽番組などでも歌われ、これほど多くの人に知られている曲ということは、本当に名曲であることの証明です。

 あらためて、「なぜこの歌を知っているのか?」と問われても答えられませんが、それも、この歌の持つチカラ故……ではないでしょうか。自然と、いつの間にか知っている、覚えてしまっている……。さすが、国立国会図書館デジタルコレクションで「歴史的音源」になっているだけあります。

 でも、田中絹代と、ガイジンみたいな上原謙の主演で、昭和13年(1938年)9月15日、前篇・後篇が同時に公開された(入場料は50銭)松竹大船映画『愛染かつら』の主題歌だったこの曲……、曲名も『愛染かつら』だったと思っている人も少なくないようです。
 「『旅の夜風』って曲、知ってる?」と聞いて「知らない」と答えても、「『愛染かつら』の歌は知ってる?」と聞けば、「知ってる 知ってる!」と答える人が多かったりします。

 映画は大ヒットとなり、翌年、『続 愛染かつら』『愛染かつら 完結篇』とシリーズ計3作が公開され、戦後にも、何度も映画化、テレビドラマ化されています。主題歌『旅の夜風』の方も、戦後、「藤原良/高石かつ枝」「神戸一郎/青山和子」「藤巻潤/都はるみ」らのコンビでも歌われており、霧島昇 自身も、昭和42年(1967年)に九条万里子とのコンビで再録音していたりします。

 で、その曲名とともに、もうひとつ、よく間違えられているのが、霧島昇とデュエットしていたのは、「ミス・コロムビア」こと松原操で、「コロンビア・ローズ」ではありません……。『どうせ拾った恋だもの』や『東京のバスガール』で知られるのが、後の初代「コロンビア・ローズ」で、戦後、昭和30年前後のハナシです。

 アコーディオンとシュトローバイオリン(ラッパの付いたバイオリン)による「いかにも昭和歌謡!」といった雰囲気のイントロで始まるこの曲ですが、日本人の心の琴線に触れるような格調高いメロディで、まさに、日本の流行歌・歌謡曲の原型と言える1曲ではないでしょうか。日本語が美しかったころの歌です。

 歌詞も、七五調ではありますが、文語体が多かった当時としては珍しく口語体に近いもので、わかりやすかったことも、流行歌として広く受け入れられた理由のひとつかと思います。冒頭の「花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる道……」は、あまりにも有名な一節ですね。

 なにしろ、まだ、旧漢字が使われていて、レーベルの写真を見てもわかるように、日本語の横書きは右から書いていた時代です。
 この曲の広告にも、「松竹大船映画」は「松竹大船映畫」、「レコード番号」は「レコード番號」、さらには、コピー文として「滿都の子女の涙を絞つた名映畫の中に歌はれて居る悲歌!」と書かれていたり……。
 当時、このコピーのように、看護婦と医者の悲恋の物語が、都会の御婦人方の涙を絞ったのかどうかはわかりませんが、一方、女学校の生徒たちは「こんな怪しからぬ映画を見てはならぬ」などと言われていたようです……。

 ご存知のように、この当時は、流行歌歌手と言えど、音大の声楽科を出ていた人が多く、伊藤久男、藤山一郎、楠木繁夫、中野忠晴、松平晃、淡谷のり子、渡辺はま子らと同じく、霧島昇は東洋音楽学校(現:東京音楽大学)卒、ミス・コロムビアは東京音楽学校(現:東京芸術大学)卒でした。正統派の丁寧な歌唱で、作家が作ったメロディと言葉を正しく伝えています。
 ちなみに、意外にも、東海林太郎は音大卒ではがありません……(バタやん、岡晴夫、灰田勝彦、ディック・ミネも違いますけど)。ほかにも、高峰三枝子のように歌う映画スターが出てきたり、美ち奴のような芸者出身の歌手も珍しくありませんでした……。

 さて、映画『愛染かつら』が公開となり、レコードが発売された昭和13年(1938年)は、日中戦争のさなか……。この年の7月には、昭和15年に開催が予定されていた「東京オリンピック」の辞退が閣議決定されています。

 その前年の昭和12年(1937年)、陸軍省が「重要産業五ヵ年計画」を発表したことで、日本は準戦時体制に入り、7月には、ミス・コロムビアも出演していた NHKのラジオ番組『鶯の競演』の放送中に、番組が中断されて盧溝橋事件の臨時ニュースが流れたそうです。
 国民精神総動員実施要綱が閣議決定され、「八紘一宇」「挙国一致」などをスローガンに、「贅沢は敵だ!」「欲しがりません勝つまでは!」などの標語が生まれ、「お国の為に」という自己犠牲を強いる精神運動が始まっていました。

 余談ですが、この昭和12年には、いま、まさに NHK の「朝ドラ」でやっている古関裕而が作曲し、戦時中は出征兵士を送る歌となった「♪勝ってくるぞと勇しく〜」の『露営の歌』(歌詞は公募、歌は中野忠晴、松平晃、伊藤久男、霧島昇)が、60万枚を超えると言われる大ヒットとなっていました。

 『旅の夜風』は、いわゆる戦前、太平洋戦争前戦争前の歌ではありますが、そんな戦争の影が、日本国内にも色濃くたちこめてきたころの歌でした……。

 ちなみに、霞ヶ浦の海軍兵学校を歌った「♪若き血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨〜」で知られる昭和18年(1943年)の戦時歌謡『若鷲の歌(予科練の歌)』(戦時映画『決戦の大空へ』主題歌)も、「朝ドラ」の古関裕而の作曲。作詞は『旅の夜風』の西條八十で、歌も霧島昇。

 戦争は、いかなる理由があってもダメですが、戦意高揚のための戦時歌謡や軍歌も、こういう超一流の作家や歌手によって大量に作られていたため、こういう、いい歌があるということも事実です……。
 コレもまた余談ですが……(余談が多すぎ)、『若鷲の歌』もコロムビアからの発売でしたが、戦時中だったので社名は「日蓄工業」(ニッチク)でした。

 昭和18年当時、霧島昇は、徴兵されて横須賀の海兵団にいたのですが、戦意高揚のためのレコードの吹込みは認められていました。
 実は、その横須賀の海兵団の副長が、ヒトラーのスタイルに憧れて、画家や音楽家などの芸術家を集めて副長付きの特別班なるものを作っていたようで(漫画家の杉浦幸雄もいた)、歌手の霧島昇兵長も、そこにいました。人気歌手であったことに加え、極度の近視のため徴兵検査で不合格になったことで、最前線には送られずにすんだようです……。

 この『旅の夜風』の作詞の 西条 八十(意外にもペンネームではなく本名)は、戦前、フランスのソルボンヌ大学に留学し、帰国後は、母校の早稲田大学文学部の教授だった超の付くインテリ。象徴詩とか純粋詩とか、ワタシにはなんだかサッパリわからないような難しいコトを書いていた詩人であり学者でしたが、一方で、『かなりあ』とか童謡をたくさん書いていたり、『トンコ節』や『ゲイシャ・ワルツ』なんて歌詞も書いたりしていますから、そんなにややこしい人ではなかったのかも……。

 失礼……、戦前は、『東京行進曲』『十九の春』『東京ブルース』『純情二重奏』『誰か故郷を想わざる』など、戦後も、『青い山脈』をはじめ、『蘇州夜曲』『三百六十五夜』『越後獅子の唄』『王将』など、流行歌の世界で大ヒット曲をたくさん持っている昭和の大作詞家です。

 わりと知られた話ではありますが、吹込みの時に、霧島昇が3番の歌詞を間違って歌ってしまい、そのまま発売されたというエピソードがあります。本来、西条八十が書いた歌詞は「肌に夜風が 沁みるとも」だったのに、「肌に夜風が 沁みわたる」と歌ってしまったのです…… で、どうなったのか……。

 その時のことが、西条八十の自伝『あの夢この歌 -唄の自叙傳より-』に書かれています。
 「あとで、氣がついたディレクターから、”吹込み直させませうか?” と言つて來たが、テスト盤を聴いてみると、霧島の “沁みわたる” と唱つたはうが、言葉にハリがあつて聴きいいので、わたしはそのままにしておいた」と書かれています……。柔軟性と対応力のある現実的なヒトです……失礼。

 戦後、藤原良と高石かつ枝によるカバーが録音された時には、原詞どおりの「肌に夜風が 沁みるとも」と歌って発売されましたが、「歌詞が違う!」という抗議の声が殺到したため、霧島昇と同じく「肌に夜風が 沁みわたる」で歌い直して再発売されました。なので、この『旅の夜風』の歌詞カードには、2種類存在しています……。

 また、1番に出てくる「ほろほろ鳥(どり)」は、アフリカ原産のヘンなトリ「ホロホロ鳥(チョウ)」ではありません。『玉葉和歌集』にある行基の古歌に「ほろほろと鳴く 山鳥の声聞けば 父かとぞおもふ 母かとぞおもふ」とあり、うら悲しい鳥の鳴く声を「ほろほろ鳥」という造語で表現したと、前出の自伝に書かれています。

 さて、一方、作曲の「万城目 正」(驚くべきことに、こちらも「正」の字は違えど本名)は、もともと映画の劇伴の作編曲、指揮をしていた人で、『愛染かつら』シリーズはもちろん、戦後は、映画『そよかぜ』の音楽を担当し、並木路子が歌った主題歌『リンゴの唄』(作詞:サトウハチロー、歌:霧島昇と並木路子)を大ヒットさせました。
 ほかにも、美空ひばりの『東京キッド』や、西條八十と組んだ島倉千代子のデビュー曲『この世の花』なども作曲しています……。スゴイ人です。

 ところで、この『旅の夜風』SP盤の写真をよく見ると、レーベル面に「Viva-tonal Recording」と書かれています……。実は、スリーブ(レコード袋)にも「ヴィヴァ・トーナル レコード」と書かれているのですが、この「ヴィヴァ・トーナル」が何たるかをご存知でしょうか?

 もともとは、米国コロムビア社製の1930年式蓄音器の型式の呼称が「Viva-tonal ヴィヴァ・トーナル(The Viva tonal Columbia GRAFONOLA)」でした……。
 なので、とくに意味はなく、昭和2年(1927年)から米国コロムビア・レコード社と提携関係だった日本コロムビアは、ハード(蓄音器)の宣伝の意味で入れていたのではないかと思われます……、あえて言えば「高音質!」的な意味合いで。

 実際、『旅の夜風』のスリーブ(レコード袋ね)ではありませんが、当時の他のコロムビアのスリーブには、「ヴィヴァ・トーナル・コロムビア蓄音器は、現代科学の粋と永年の経験と熟練せる技術との結晶で、斯界随一の最高級蓄音器であります。発声は最高音から最低音に至るまで極めて自然に淀みなく再生せられ、実に実演其儘(じつえんそのまま)であります」などと、大仰なコトが書かれていたり……。

 もうちょっと歴史を紐解くと、初期のレコードの録音は、マイクというモノが、そもそも存在していなかったため、「アコースティック録音(機械式録音)」というやり方でした。
 つまり、蓄音機と真逆の方法、ラッパに向かって歌ったり楽器を演奏して、その音でダイヤフラムを振動させ、カッター針に伝達して原版に溝を刻み込んで(カッティング)記録していました。なので、より音量が必要となるため、前出のシュトローバイオリンなんかが必要でした。

 やがて、大正末期(1920年代後半)、カーボンマイクロフォンの登場により、欧米の各レコード会社がマイクを使った「電気録音」をスタートさせました。
 その時、ビクターは「オルソフォニック録音」(原音そのままの意味)、ポリドールは「ポリファー式録音」、そして、コロムビアは「ヴィヴァトーナル式録音」(肉声そのままの意味)と、それぞれ各メーカーが名付け、電気録音をアピールしていました……。
 その後、昭和6年(1931年)ころには、レコードの吹込みは、完全にマイクを使った電気吹込に移行したようです。

 だから、レーベルやスリーブに書かれている「ヴィヴァ・トーナル レコーディング」は、「最新式の電気録音で高音質!」みたいな意味ですかね……。

 さて、『旅の夜風』のほかにも、戦前の歌謡曲には、いまだに歌い継がれる名曲が、ほかにもたくさんあります。

 霧島昇の『父よあなたは強かった』『一杯のコーヒーから』『純情二重奏』『誰か故郷を想わざる』『蘇州夜曲』『新妻鏡』『目ン無い千鳥』などはモチロン、藤山一郎『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』『丘を越えて』、淡谷のり子『別れのブルース』、灰田勝彦『鈴懸の径』『燦めく星座』、高峰三枝子『湖畔の宿』、東海林太郎『旅笠道中』『名月赤城山』、田端義夫『大利根月夜』、美ち奴『あゝそれなのに』、中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズ『山の人気者』、ディック・ミネ『人生の並木路』『二人は若い』、そして、古関裕而作曲、伊藤久男の『暁に祈る』……などなど、キリがないです……。

 そういう歌手たちも、戦争中は、戦意高揚のための「戦時歌謡」ばかりを歌わされていましたが、戦地への慰問では、やはり持ち歌のヒット曲を求められ、そっちの方が大いにウケたようです(ホントは歌ってはいけない歌もあったようですが……)。

 『旅の夜風』が発売された翌年の昭和14年(1939年)、人気歌手同士の霧島昇とミス・コロムビアこと松原操は、作曲家・山田耕筰夫妻の媒酌によって結婚しました。で、二人の長男「坂本紀男」も両親同様、音大卒の音楽家です。

 坂本紀男は、東京藝大の声楽科を出てイタリアに留学した後、東京音楽大学の教授を務め、現在は東京音楽大学大学院名誉教授をしています。実は、NHK『思い出のメロディー』や、歌手協会主催のコンサートなどで、両親の『旅の夜風』を歌ったりもしているんです。

 また、坂本紀男の妹、霧島昇と松原操の三女である「大滝てる子」も東京音大オペラ科卒の歌手で、クラシックを歌いながら、「二代目 松原操」とも名乗り、両親の歌を中心としたコンサート活動を続けていたりします……。

 そうなると、坂本紀男と大滝てる子の『旅の夜風』を、一度、聴いてみたくなります……。

(2020年5月6日 西山 寧)


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